形式:文庫
出版社:光文社
形式:Kindle版
ロマン・ロランへの反論が痛烈。「なかでもロマン・ロランからの悪罵は、私にはこたえた。これまで彼の書くものをいいと思ったことは一度もないが、少なくともその人間性だけは高く評価していたからである」。ちなみに巻末の解説(これもまた勉強になる)でロマン・ロランからの「悪罵」も紹介されている。人格者であるはずのロマン・ロランを狂わせるまでに、ソ連は希望だったんだなぁ…
Wikipediaによると、ジッドはソヴィエト旅行をしたまさに1936年、ロマン・ロラン生誕70年祝賀会で司会をしたらしい。ロマン・ロラン(なぜかフルネームで書きたくなる)は日本風に言えば古希祝賀会の司会者の著作を悪罵したんだ。また、祝賀会の司会をしたほどの相手に「書くものをいいと思ったことは一度もない」と言い切るジッドもすごい。
「幸せになるためには順応的であれ」「今日、ほかのどんな国でも、ヒトラーのドイツでさえ、このソ連以上に精神が自由でなく、ねじ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないか」旅行記を出版後多くの罵倒を浴びたジッドは翌年旅行記修正を出版し反論している。理想から政治への移行する間での変容。現代に読む価値のある記録。
「今日、ほかのどんな国でも――ヒトラーのドイツでさえ――このソ連以上に精神が自由でなく、捻じ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないかと私は思う。」(p85)とジッドは書く。 神を愛するが故に男性を愛することに苦しむ女性を書いた『狭き門』しか読んだ事がなく、好みとは言い難い作家なのだが、ジッドがソヴィエトをどう書いているのか、興味本位の気持ち半分で読み始めたのだが、真っ当なジャーナリストが現地を見、手に入る資料を出来るだけ読みこんで書きあげたような本だった。 →
ジッドが描いたソヴィエトは、今のロシアにも通じているところがあるのではないか、と感じた。ロシアのことを知りたくて読んだ新書的な本も有意義だったが、こういった本もロシア理解を深めてくれると思った。 1936、1937年刊。 ……≪大事なのは、物事をそれがそうであるとおりに見ることであって、こうであったらよかったのにという希望のとおりに見ることではない。(p244)≫……
⇒不都合な真実を見せまいと、一行をとにかく歓待するソ連側の目をくぐり、ジッドは一般民衆とのふれ合い、語らいを重んじた。そうした体験が合理的な批判精神と芸術家の感性と合わさって『旅行記』に結実したのだろう。もとよりジッドが党派的な人物でなかったことも大きい。しかし同書はフランスの共産主義者から猛反発を受けてしまう。ジッドは反論として同書の『修正』を執筆するが、そこにかつてのアンビバレントな筆致はなく、ソ連をきっぱり批判している(尤も共産主義にはまだ幾許かの期待を抱いていたようにも感じられる)。⇒(2/3)
⇒ジッドの見たソ連の実態が、逸脱事例ではなくむしろ共産主義の必然的な帰結であることは今や歴史的にも明らかだが、ジッドは1936年という、まだソ連の内情が覆い隠されていた時期にそれを鋭く見抜き、時代や思想に制約されることなく『旅行記』や『修正』に書き留めた。その慧眼には驚きを禁じ得ない。息を吹き返しつつある共産主義と、その系譜に連なる権威主義体制が自由と平等を脅かす昨今、これらの体制を採る国家に屈従することがどんなディストピアをもたらすかを、はるか90年近い過去から本書は教えてくれる。(3/3)
自己批判なるものは、要するに、これこれのことが「しかるべき線の中に収まっている」かそうでないかを問うものに過ぎないのだということを。線そのものは議論されないのである。議論されるのは、ある作品なり、振る舞いなり、理論なりといったものが、この神聖にして侵すべからざる線に合致しているかどうかだけなのだ。
それ以上を試みんとする者には災いあれ!この枠内での批判ならば、好きにやって構わない。だが枠を超えた批判は許されていない。そういう例は歴史の中にいくらもある。しかし、こういう精神状態ほど文化を危機にさらすものはない。-67頁
オスカーワイルドの流れを汲む耽美的な文体と、あくまで(左翼主義者ではなく)小説家然とした自己内省的な描写には、この作家の小説を一冊しか読んだことのないわたしでさえ、敬意をあらたにせざるをえなかった。それにしても光文社の新訳は読みやすくて良いですね。
今、為政者たちが人々に求めているのは、おとなしく受け入れることであり、順応主義である。」という言葉は(残念ながら)アクチュアルに響く言葉である。
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