■太宰治の『女生徒』に元となった日記があることは有名ですが、もとの日記にあった個性・個人を重んじる記述は排除し、女生徒を刹那的であり、かつ、強い力に依存したがっている人間として巧妙に作品化されている戦時下文学であることを知り、少し残念…個性・個人尊重は骨抜きにされ、その感じたこを流れの様に書いていく綴り文体だけが盗られたのでした■『赤毛のアン』の翻訳者、村岡花子も戦時中はこんなに隣組肯定のプロパガンダエッセイを書いていたのですね…朝ドラ『花子とアン』にはどう描かれていたっけ?(今週からBS12再放送開始)
■「共・協による個人主義の否定」は許容できないが、自民党の憲法改正草案に既にその兆候がみえる■十三条現在:「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」■自民党改正草案:「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」⇒「個」は削除、「公益及び公の秩序」優位。
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます
実は翼賛体制という国策の一環であった歴史を、大塚は丁寧に明かしていく。もちろん、戦争に勝つことを目的とした「新しい生活様式」と、感染症を抑えるための「新しい生活様式」を安易に重ねることの危うさに大塚は自覚的だ。とはいえ、当初は戦争に例えられていたコロナとの戦い、その監視的かつ強要的な同調圧力を思い返せば、あながち安易な連想とも言えないのではないか。生活や日常の顔をして、かつて戦争がやって来た。近い将来、同じようなことが起こったとして、自分はそれを戦争の顔だと認識できるだろうか。