形式:単行本(ソフトカバー)
出版社:ミシマ社
形式:Kindle版
九鬼周造は偶然性とは必然の否定なので無いことのできる常に否定を含んだ存在であり、偶然性という「驚異」は「形而上的情緒」であると。偶然性が必然性に転化するとき運命(仏の本願)となり人間の救いになる。 意識的なものではなく自己鍛錬により無意識的な偶然により思いがけず利他となることを説く
(2)そこに、利他と親鸞の他力本願の思想的繋がりが感じられ、自己の主体的行為というこだわりからの解放こそが、現代の閉塞感を解きほぐし、共存共栄の未来社会を開く鍵になるということを感じさせられた。逆説的な言い方かもしれないが、自己にこだわる自己からの解放、という特例的な計らいは、ある意味必要ではないか、ということも感じた。著者が参加する、東京科学大学の人類の未来研究センターのプロジェクトテーマとしても利他が取り上げられており、そちらにも大いに注目して行きたい。
そこに利他が宿るのだと思う。 この行いがその人のためになるかどうかはわからない。むしろ、自分のためにしているのかもしれない。そのようにわきまえることは、少なくとも「○○してあげた」という奢りから私を解放し、何もできないからこその「祈り」へと導いてくれる予感がする。心の中に大事に留めおきたい。
日本語に表れる「ちゃった」という表現、謝罪の心理などの例示から、これらのあたかも現実から遊離しているような利他の解釈を正当化する主張をしている。少なくとも仏教的世界観によれば、もっと世界には不可抗力があり、制御不能だ。そんな絶えない流れの中に私を委ねて生きていこうと思いを新たに。私としては、インドの言葉の与格構造の話を読んで、このところ「私」というものが強く大きくなっていたことに気づいた。主格を用いて、自分の関係する物事は全て自分の意識でどうにかなると思い込んでいた。静かな、それでいて革命的一冊。
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