行き場のない論文達の墓場として作成。
教育社会学を中心に。
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杉野勇「「合理性」の概念特性ーウェーバーの合理性類家論の再検討ー」(ソシオロゴスNo 19)
ウェーバーの合理性が知りたくて一読
価値合理的行為と目的合理的行為って区分できなくねって話。
行為と行動の違い
→主観的思念によって意味づけられているかどうか。
行為の分類基準
①行為の意義・意味について反省的意識があるか否か
→感情的行為、伝統的行為、目的合理的行為、価値合理的行為
②行為の意義が行為そのものに志向してるか、行為の帰結に志向しているか
→習慣によって起動する無反省的行為
情動(以下略)
行為そのものに志向した反省的行為
行為の結果に(以下略)
問題縮小(複雑性の縮減と対応)byルーマン
=恒常的な問題性→解決され得る問題
e.g.「自然環境の保護」→「福島市の森林伐採率をx%削減する」
柴野昌山(1982)「知識配分と組織的社会化ー「カリキュラムの社会学」を中心にー」(教育社会学研究第37集)
教育社会学で支配的な見方であった機能主義(学校は配分と社会化の機能を持っている)を批判する形で、「葛藤理論」(学校は身分集団間の闘争の場である)、そして、本稿で中心的に論じられている「新しい教育社会学」が表れた。これは、「学校において伝達される知識がどのように組織化され、カリキュラムに適応されるのか」、そのメカニズムを考察する立場である。この見方が誕生するに至った理由は①結果の不平等が露わになり、その原因が学校内における知識配分の不平等にあると考えられたこと②バーガーとルックマンの功績(知識社会学+現象学的アプローチ)にある。
「新しい教育社会学」は自明のものとされている教育的な現実を疑うことに特徴がある。現実は教師と生徒の相互作用ー「交渉」ーによって現出し、決して固定的に存在するものではない。そして、経験的な次元で示すために「カリキュラム」や「隠れたカリキュラム」にフォーカスを当てている。
吉田直哉(2012)「B.バーンスティンの「教育コード」理論の形成過程ー1970年前後の転回に着目してー」(東京大学大学院教育学研究科 基礎教育学研究室 研究室紀要 第38号)
バーンスティンの概念が分かりやすく載ってて勉強になる。1970年代に学校を教育の文脈として認識する視座が形成され、バーンスティンの着眼点が家族→学校へと移行した。ブルデューと違って、学校をコードの再読み替えの場所と捉えているってところに、教育学部としては親近感を湧かずにはいられない。
桜井芳生「ブルデュー文化的再生産論入門」(現代メディア文化論特講14)
論文ではないが、ブルデューを平易に説明してくれている。ハビトゥスとは慣習の総体であり、個々の行為がプラティークである。また、筆者は「文字階級の再支配仮説」を提唱しており、文字メディアを使いこなせるような人が支配階級になるという論理である。確かに、非文字メディアの急速な発達を考慮すると、無くはない仮説である。
加藤大貴・田中智代子(2012)「バジル・バーンスティン『〈教育〉の社会学理論ー象徴統制、〈教育〉の言説、アイデンティティ』(久冨善之、長谷川裕、山崎鎮親、小玉重夫、小澤浩明訳)」(東京大学大学院教育学研究科 基礎教育学研究室 研究室紀要 第38号)
バーンスティンの著書の概説がされている。ブルデューとの差異に関する主張が見られ、〈教育〉装置に希望を感じられる。というのも、ブルデューは学校を文化的再生産の場所!とだけ認識しているが、バーンスティンは文化の生産の場でもあると主張しているからである。
森重雄(1990)「教育社会学における理論ー教育のディスコントラクションのためにー」(教育社会学研究第47集)
【要約】教育社会学的な理論は教育学的な理論ー社会通念や常識知に親和的なそれーに打ち負ける。というのも、社会学がある理論を打ち立てても、それは、教育学モデルの不在として認識されてしまい、現状批判へと論点の移行がされるからである。
教育社会学は教育学に従属する「おとなしい」 学問であることを辞めて、ラディカルに理論を構築していけ。そのための方法として 、ディスコントラクション(脱構築)が有用である。教育学が自明視している土台に、社会学な手法で水を流し、液状化させてやろうぜ的な感じ。
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