本書で登場する主な哲学者はヴィトゲンシュタインと最近分厚い著作が翻訳されたスタンリー・カヴェルである。これらを補佐する形でトマス・ネーゲルやジョン・オースティンが引用される。知っての通り、ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』において日常的な言語の分析へとうつり、人のやりとりは「言語ゲーム」(Sprachspiele=話すことと演技すること)にあり、論理実証主義的なものではないと転向する。※これは転向ではないと野矢茂樹はいう。この「言語ゲーム」の世界には終わりがない。
私たちは幼少時から人の間で「文法」を学ぶ。「痛い」という言葉を発し、「痛い」という動作をおこなう。大人はそれをみて、きいて、「この人は《痛がっている》のだ」とわかる。もしかすると、それは演技かもしれない。しかし、それも含めての「言語ゲーム」=Sprachspieleである。子供は認知言語学者の今井むつみがいうようにわからないなりにアブダクションを経ながら、学習し、「痛い」ときの言動を身につけていく。だが、この世界観を拒否する人々がいる。「懐疑論者」である。
彼等は「なぜその知識が正しいというのか?たとえば、そこにコップがあるとなぜいえるのか?」と問うてくる。これに対して人は「目の前にあるじゃないか」という。だがこの瞬間、反懐疑論者は懐疑論の土俵にのっかっているとカヴェルはいう。正しい反論は「なんでわからないの?」なのである。カヴェルは懐疑論を次のような哀れみをこめた文で表現する。「他者の心についての懐疑論は、懐疑論ではなく悲劇である」と。彼等は人を、世界を信用できなくなった。「受容」しなくなっている。
古田によれば「懐疑論者の言う〈知る〉とは全く様相を異にしている。というのも、懐疑論者にとって〈知る〉とは、対象としての世界を確実に知ることであって、世界を受け入れること—いわば、世界のうちに住み込むこと—として捉えられるものではないからである。」と。つまり、懐疑論者は責任を負うことがない。それはそうだ。我々と同じ世界にいることを拒否し、外面的な世界から我々と接しているだけだからである。ヴィトゲンシュタインの文法から逸脱した人、「言語ゲーム」から外れて、虚しく《言語化》をする人々、これが「懐疑論者」である。
また、最近話題になった「マイクロアグレッション」もそうではないだろうか。これはヴィトゲンシュタインがいう「像=Bild=他人の考えに何か裏があるのではないかと勝手に像をつくりだして解釈する行為」であり、人を信用することができなくなってしまった人間の思想だと考えられはしないだろうか。この辺りに関するものとして、以前に紹介した永守伸年『信頼と裏切りの哲学』を再読するといいかもしれないと思い始めている。また、カヴェルについて全くとっかかりがつかめないままだったが、この本を読んでみて、挑戦してみようと思った。
※追記 あれから自然主義入門やもろもろの哲学書を読み、この本を約一ヶ月半ぶりに再読して思ったが、古田氏は自然主義哲学に対して疑義を呈しており、それはヴィトゲンシュタインの思想自体がそうで、たとえば神経科学などで人間のことがどこまで解明できるかについては哲学の分野でまかないきれるのかわからないということがこの本の最後の方にかいてあること確認した。これは前回の読書ではいまいちわかっていなかったのだが、二回目で実にこの本はすぐれたものだと感心してしまった。ちょうどone.というゲームを終えて関係性があることも
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本書で登場する主な哲学者はヴィトゲンシュタインと最近分厚い著作が翻訳されたスタンリー・カヴェルである。これらを補佐する形でトマス・ネーゲルやジョン・オースティンが引用される。知っての通り、ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』において日常的な言語の分析へとうつり、人のやりとりは「言語ゲーム」(Sprachspiele=話すことと演技すること)にあり、論理実証主義的なものではないと転向する。※これは転向ではないと野矢茂樹はいう。この「言語ゲーム」の世界には終わりがない。
私たちは幼少時から人の間で「文法」を学ぶ。「痛い」という言葉を発し、「痛い」という動作をおこなう。大人はそれをみて、きいて、「この人は《痛がっている》のだ」とわかる。もしかすると、それは演技かもしれない。しかし、それも含めての「言語ゲーム」=Sprachspieleである。子供は認知言語学者の今井むつみがいうようにわからないなりにアブダクションを経ながら、学習し、「痛い」ときの言動を身につけていく。だが、この世界観を拒否する人々がいる。「懐疑論者」である。
彼等は「なぜその知識が正しいというのか?たとえば、そこにコップがあるとなぜいえるのか?」と問うてくる。これに対して人は「目の前にあるじゃないか」という。だがこの瞬間、反懐疑論者は懐疑論の土俵にのっかっているとカヴェルはいう。正しい反論は「なんでわからないの?」なのである。カヴェルは懐疑論を次のような哀れみをこめた文で表現する。「他者の心についての懐疑論は、懐疑論ではなく悲劇である」と。彼等は人を、世界を信用できなくなった。「受容」しなくなっている。
古田によれば「懐疑論者の言う〈知る〉とは全く様相を異にしている。というのも、懐疑論者にとって〈知る〉とは、対象としての世界を確実に知ることであって、世界を受け入れること—いわば、世界のうちに住み込むこと—として捉えられるものではないからである。」と。つまり、懐疑論者は責任を負うことがない。それはそうだ。我々と同じ世界にいることを拒否し、外面的な世界から我々と接しているだけだからである。ヴィトゲンシュタインの文法から逸脱した人、「言語ゲーム」から外れて、虚しく《言語化》をする人々、これが「懐疑論者」である。
また、最近話題になった「マイクロアグレッション」もそうではないだろうか。これはヴィトゲンシュタインがいう「像=Bild=他人の考えに何か裏があるのではないかと勝手に像をつくりだして解釈する行為」であり、人を信用することができなくなってしまった人間の思想だと考えられはしないだろうか。この辺りに関するものとして、以前に紹介した永守伸年『信頼と裏切りの哲学』を再読するといいかもしれないと思い始めている。また、カヴェルについて全くとっかかりがつかめないままだったが、この本を読んでみて、挑戦してみようと思った。
※追記 あれから自然主義入門やもろもろの哲学書を読み、この本を約一ヶ月半ぶりに再読して思ったが、古田氏は自然主義哲学に対して疑義を呈しており、それはヴィトゲンシュタインの思想自体がそうで、たとえば神経科学などで人間のことがどこまで解明できるかについては哲学の分野でまかないきれるのかわからないということがこの本の最後の方にかいてあること確認した。これは前回の読書ではいまいちわかっていなかったのだが、二回目で実にこの本はすぐれたものだと感心してしまった。ちょうどone.というゲームを終えて関係性があることも