<現在のシリーズ読書>(2022年2月)
【中世】網野善彦を軸にいずれは始めようと思っていたのが、ちょっと先走ってしまったのは、勿論大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のせい。中世に良くも悪くも現代の始原がありそう。もちろん西洋中世や科学の中世も。
【沖縄】始原へから分岐。人類の到達、先史、琉球王国、琉球処分、沖縄戦、占領、基地、民俗、自然と日本の原初であり未来である。
【始原へ】レヴィ=ストロース"野生の思考"を求めて。文化人類学だけでなく考古学/歴史学や民俗学、さらに文学にも導かれ起源を探ることになろう。人類はどこで間違ってしまったのか。
→【タヒチ】バルガス=リョサ「楽園への道」に導かれて、ゴーギャンのタヒチを追う。
→アンデス・マヤからインディオに迷い込む。分岐せずに続けたがいずれ分岐だな。
【シリーズ森】森をめぐる小説やら生物誌やら冒険記やら。癒しと息抜きの世界。
【新人世】ハラリに啓発されホモ・サピエンスという種としての人類の行く末を考える(将来志向。過去への遡りは【始原へ】に分岐)。
【真理鉱山】この言葉はイーガンの究極SF「ディアスポラ」から借用したもの。永遠の命を生きてなお追及に値する普遍なものとして主人公が最後に選んだのは数学だった。公理・定理・演繹法の鉱山■自然現象の統一理論で近代理性の勝者となった(かに見えた)物理学。量子力学でどうひっくり返ったのか。少なくとも決定論は崩れる。そこに到達するまでの一歩一歩の積み重ねのお勉強となる。物理の前に、数学篇。並行してデカルト以来の哲学篇を辿ることになろう。近代理性の行きつく果ては何か。しかしどこまで行きつけるか。
【ゲーテの時代】近代への転換の時代に長く生きたゲーテの作品(小説/戯曲/科学)を発表年順に読む。関連する同時代人作品や歴史も追うことになろう。
【コロナ】2020年4月の緊急事態宣言でひたすら読む。コロナ最新情報からペストなど歴史や小説、医学/免疫学/ウイルス学にも手を伸ばしたが。。。
【諏訪】縄文と神社と山。フィールドとして魅力いっぱい。長らく中断しているが、再開したい。
【能】観能記が現在ヴァーチャル能に。日本における"野生の思考"もほの見える。
★それぞれ読んだ本一覧は"本棚"に登録しています。
(2020年3月-)
コロナのためどこにも行けず、読書感想復活。いつまで続くか。
(2017年6月-2020年2月)
山と温泉旅没入時代。仕事以外の時間はほぼすべて費やし、本から離れ感想空白期間。旅つぶやきと写真だけアップし続ける。
(2016年-2021年現在)
仕事埋没時代。行先不透明。
(2014年-)
最近、身近な自然を発見し、カメラ片手に歩き回っています(昼休みと休日だけど)。至近の海岸、よく見える富士山、朝焼けや夕焼け、川にいる水鳥、丹沢の山々が、たびたび登場して、皆さんのお目を汚しており恐縮です。翔亀のネイチャー派時代。読書もその傾向のもの多し。
(2013年-)
皆さま、ナイス及びお気に入りありがとうございます。こちらに参加させていただいて数か月ですが、おかげで読書生活がかなり充実しました。皆さんの感想にはいつも感心しております。どうぞよろしくお願いします。
私の方は、あまり読む時間がないけど、集めるのだけは好きで、積読がどんどんたまってしまって。気が向いた時に徐々に登録してますが、何冊になるか怖い(到底読み切れない)。これまでの読了本を登録する暇はないので、読書歴(収集歴)を、大したことないけど紹介させていただきます。
【読書傾向】乱読ですがちょっと悪癖があって、一定期間同じテーマを追いかけるのですが、3か月位で飽きてしまって途中で放り出して、次のテーマへと移ってしまいます。
ちなみに2011年頃からの収集した(読み切っていないのが多い)テーマを並べると、
・SFファーストコンタクトもの(特にクラーク)
・災害パニックもの
・古典SF(ウェルズ、バロウズ、ベイリー)
・進化論と生物学
・初期古井由吉
・最近のミステリー(ディーヴァー、ローザン)
・スパイもの(フレミング、ル・カレ)
・ホームズとヴィクトリア朝そしてディケンズ
・フランス革命をめぐって
・森鴎外と徒然草
・SF時間ループもの
◆その前だと、古典古代ギリシャ→聖書→詩→万葉集→ホームズ(珍しく後に戻ってきて完読)→シェイクスピア→イギリス史→韓国→ルネサンス→ダンテ→ギブソン→ゴジラ→ピンチョン(もちろん途中挫折)→明治文学→香港映画→中国史→源氏物語(もちろん途中挫折)てな具合で、めちゃくちゃですね。学生時代は理論経済学のゼミに居ながら、丸山真男、栗原彬、高畠通敏、内山秀夫さんに熱中していました。
◆そして今。
ミステリー黄金期(クイーン等)と、その評論から気になり出した哲学・論理学→笠井潔を経由してカタリ派→坂東眞砂子を経由して民俗学→梨木香歩をよりよく読むために古代史→最近は1930年代がテーマかな
が通勤用に舞城王太郎→三浦しをん→梨木香歩
を追いかけていますが、そのうち、中途半端なまま放り出しそうです。
【好きな作家】:そんな中で、持続的にお気に入りの現役作家は、
・山本弘、上田早夕里 あたりです。
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→2)交流があったこと(独歩26歳、国男22歳←明治の人達は意外な結びつきがよくある)。赤坂は武蔵野で生まれ育ち、勤務先の東北から戻って住むようになったこと。さらに元々文学出身で震災後に文学の力を信じてみたいとの思いも出てきたようだ。赤坂の「武蔵野学」のはじまりである。■徹底解読とはこういうことを言うのかと感心した。独歩が住み歩いた武蔵野の森とは渋谷(NHKホールの近く)だったのは驚きだが、それはともあれ独歩は、初めて武蔵野の落葉広葉樹林の美を称揚するのだ。これが明治文学の出発的の一つとなった。初めてと↓
→3)いうのは、武蔵野は中世までの歌枕的には「野」であり、日本人は松にしか美を見出してこなかったからだ。どういうことか。赤坂は、植生的・民俗学的両面から再現して見せる。人類が登場する前は関東はシイ・カシの照葉樹林だ。それが中世にかけて焼き畑により照葉樹林は消滅した。江戸に入り新田開発が行われ農家は堆肥と薪炭のために、照葉樹林の後に生えてきた二次林のコナラ・クヌギ林を手入れ(伐採)をしながら守ってきた。その落葉広葉樹林に美を発見したことが独歩の文学のマニフェストだったわけだ。東北の自然のままの落葉広葉樹↓
→4)林(ブナ・ミズナラ)とは違って、人の手の加わった森ということに注目したい。それは人間臭い雑木林。独歩はそこに美を見出し、散策という名の歩行の思索=旅を見出した。■赤坂はもちろん文学的な読みも試みている。ツルゲーネフとの関係や独歩の失恋との関係も。ここではしかし、赤坂が「武蔵野はいま、あらためて挽歌として発見される」としていることに注目したい。この武蔵野はつかの間のものだったことを。渋谷からコナラ・クヌギ林がなくなっただけでなく、散策という歩行の思索もマニュアル化された。さらに、関東の↓
→5)コナラ・クヌギ林は人の手が入らないと、照葉樹林に戻ってしまうのだ。私の近所の森が今、その過程にある。
とても参考になりました。すべての箇所ですが「関東のコナラ・クヌギ林は人の手が入らないと、照葉樹林に戻ってしまうのだ。私の近所の森が今、その過程にある。」
mituさん、近所の"この森"の照葉樹林の発見は、コロナの唯一の収穫かもしれません。ここしか行ける所がなかったので。これまでは南側は社叢林を中心とした照葉樹林、北側はケヤキやコナラ、カエデを中心とした二次林(落葉樹林、元人工林)だと単純に思っていたのですが、北側の森の下層にはシイ、カシの幼木が沢山育っていました。50年もすれば立派な照葉樹林になることででしょう。関東一円の森は人工林を除き照葉樹林になるはずです。となると紅葉(と落葉)は、公園と山の標高の高いところ(1,000m以上)に限られるでしょうね。
翔亀さんの地道な観察が植物学というか地形学的というか、学問ジャンルの言葉に無知で適切な言葉が出てきませんが、一つの結果に結びつくなんてすごいです。