な十九歳だった』で明示された空虚若くは針小棒大な中身を偽装する論法が存分に駆使されている。いかにも展論しているように見せかける用語法(ここで(もまた)・とすれば・いまや・こうして・もはや・むしろ・〜の場合)。展論が弱いため強める語法即ち虚仮威し(すべての・あらゆる・いっさいの・こそ・もっとも・まさに・つねに・そのかぎりにおいて(のみ)・〜以外の(なに)もの:でもない〔も意味しない〕・たったひとつしか・唯一の・そのもの・重要なのは)。妄想を「事実」と称する。退屈な展論にめり張りをつけようと疑問文を挿入する。
おかげさまで、退院いたしました。やっと鼻管と耳栓から解放され、横を向いて寝れます。色々なことがあり、色々と考えるところがありました。とりあえずは平穏無事な生活に戻れるかと思ったら、平穏なのは1日だけで、翌日急にイボ痔ができ、再び通院する羽目になりました。リアル泣きっ面に蜂といったところです。血栓性外痔核のようで、やはり血栓が絡んでいるみたいです。カラリとしたご報告ができなくなり、お伝えするのを躊躇した所以です。総体的に体にガタがきたのかもしれません。でも心配ご無用。希望は力なりということを学びましたから。
退院おめでとうございます。退院されたと聞き、本当に安心しました。季節の変わり目で体調を崩しやすい時期ですので、無理をなさらずお過ごしください。少しずつ元気を取り戻されますよう、心からお祈りしています。
かわせみさん、ありがとうございます。抽象的な言い方になりますが、この度こちらでのコメントも含めて、周囲から究極的な助けの手を差し伸べていただき、命拾いしました。これで私が変わらなければ、手を差し伸べていただいた人々の顔にも泥を塗ることになります。このままで終わらないために、何より自分自身の尊厳にかけて、恥ずかしくない生き方に人生を仕切り直ししていきたいと思います。本当にありがとうございました。
無秩序に組織や会議を濫造する。指揮系統は乱れ対処は非効率化し、責任の一元化は阻害され(参加者各自の無責任が保証され)、あまつさえ各セクションが利害や主導権を巡って対立すら起こす。日本特有の上の者の「聞いてない」という謎面目。さらに「会議」とは名ばかり、生産的な議論をすることは一切ない。何をしてるかといえば声明等の文言作成の作文会議。96年北朝鮮からの韓国へのミグ19亡命事件では内調も安保室も第一報をマスコミから得た。それなら情報収集はマスコミにやらせればよい。政府が湯水の如く情報収集に注ぎ込んでいる莫大な
血税は全て捨て金である。そもそも情報の集約・統合などということはトップが有能であることが前提なのであって、戦前の天皇制同様中空・無能なら機能不全に陥るのは判り切ったことだ。それでも何とか機能しているのは現場の臨機応変さによる。中枢に統合能力はないのだからレスキューは各チームで出動し現場で協力・差配し合いながら重機を動かし瓦礫を撤去せよ。被災者は効率性などという幻想でなく血の通った人間の手による救いをこそ求める。これでミスターオペレーション・タスクフォース・エスピオナージ麻生幾の手持ちの著作4冊を片付けた。
なるほど、これ(=星の趣向)はもはやSFかシュールレアリスムだ。ならばお呼びではない。私は『1』の「海」という作品の文学性に打たれて『広場』にはまったのだ。もちろん一番求めていたのはプロットである。だがもはや訳の判らぬほどいいという世界に成り果ててしまった。ショートショートの一般性への広がりの可能性は、星によって殺されたといってもいい。星はひとりによる選考の「責任の重み」を自覚する一方で、「この分野では、私にまさるアンパイアはいない」と自負するが、懸念通り独断にはまる。「列車とすべきを、汽車と書いている。
仕方ない」などとは完全な勘違いであり、「」末尾の句点の有無や敬体否定や一人称否定やダジャレは無意味でダメだがナンセンスはいいなどというのは完全に星の趣向だ。そのくせ再三選者に合わせるなと説教する。「いずれは、私の判定に文句をつけるなとする」と本音もチラつかせ、これでは詐欺師が人を騙すなとアドバイスするようなものである。かろうじてプロットが認められるような作品にも無理があり、よくできていると膝を打つような作品は皆無に近い。反対に「よくできた」とされる作品は解説しない流儀であり解読作業が必要でストレスを齎す。
「ひとつひとつの事物」の「特権」性を「多数の真理」とする。だが言語を初めとする文明こそ一般化の昇華なのであって、オウム真理教や共産主義は文明の成果を利用する、ルソーやアーミッシュは拒絶すると旗幟を鮮明にしているのに、カミュはそれこそ「自然に帰れと叫んだルソーから人間は四つ足で歩くべきだという結論を抽き出」す以上の一般化否定をしながら卑怯にも旗幟を鮮明にしない。空論なのだ。そもそも逆説を濫用、即ち0=∞という観念で一般化の精華たる言語を用いて「論証」しようというのだから何重にも無茶苦茶である。山川健一『みん
な十九歳だった』で明示された空虚若くは針小棒大な中身を偽装する論法が存分に駆使されている。いかにも展論しているように見せかける用語法(ここで(もまた)・とすれば・いまや・こうして・もはや・むしろ・〜の場合)。展論が弱いため強める語法即ち虚仮威し(すべての・あらゆる・いっさいの・こそ・もっとも・まさに・つねに・そのかぎりにおいて(のみ)・〜以外の(なに)もの:でもない〔も意味しない〕・たったひとつしか・唯一の・そのもの・重要なのは)。妄想を「事実」と称する。退屈な展論にめり張りをつけようと疑問文を挿入する。
なる。そしてかえって財政が逼迫し社会サービスが貧弱化するという悪循環。女性が社会進出するということは扶養者から納税者になるということだ。それが浸透していかないのはどこぞのカルト宗教の煽動する封建的男尊女卑思想が日本人の中に根深いからだ。なぜ日本はスウェーデンやデンマークのような福祉大国になれないか、原因は2つある。「全ての人間は神でない限りハンディを持って」おり「福祉の問題は一部の人の問題ではなく全ての人類が人類である限りの問題なんだという認識を日本人が持て」ないこと(ゆえに福祉享受者を怠け者のズルい人間
と捉える)と、政府が信頼に足りぬため納税を自分達に必ず見返りのある未来への投資と捉えられないことである。今話題の○万円の壁も本来年金給付を手厚くするという趣旨なのになぜ民心を得ぬかというと、政府が信頼できず横領されるかもと思うからだ。最終解に従った住宅政策をとるスウェーデンでは何十年も精神病院の閉鎖病棟にいた患者が一軒家で個室をもち一般市民と変わらぬ生活を送っていることを、日本人は想像すらできまい。爪に火を灯して生活保護から貯めた18万円を福祉事務所に没収された老人が自死し遺書さえ隠蔽するのが我が日本だ。
対立二元論こそキリスト教に根差す西洋思想の基底である筈であり、マルクスはそれを止揚したのだろうか。それにしてもつくづくマルクス主義の失敗ということを思う。マルクス主義に依拠する者は、大概難しい理論はマルクスに全ておっかぶせる。自分には理解できないがマルクスがあれほど小難しいことをいってるのだから科学的に完璧なのだろう、と。確かにその通りなのだ。私ほど晦渋な表現で中身がないのを誤魔化す論者を容赦しない者はなく、意味の通らぬ文には波線を引きながら読み、いつも本は波線だらけになるが、本書にはそれが引けなかった。
マルクスは天才だというのは陳腐な表現だが、これは初めてのタイプだ。優れた棋士が何百何千先の手を読むように、3つも4つも先取しているような余熱を感じるのだ。ゆえに理論的には皆マルクスにはお手上げして忌避するのだ。本書なども直訳に拘泥し意訳を憎み、「意識」と「自己意識」の違いなど難解で、伝わらず、スミスに始まる近代経済学がワルラス、マーシャル、ケインズ、シュンペーターという後継者を得て発展したようにはマルクス主義はいかなかった。アルチュセールなど構造主義という変なフィルターを通したために狂わねばならなかった。
話術も得意技だ。おまけにまず口述本なのだがライターの腕もまずく、ビートたけしの口述ライターの爪の垢を煎じて飲んだ方がいい。今小泉進次郎らの“構文”が話題だが、あの系統のはしりといった観がある。とにかく全くコミュニケーションが成り立たない。それが国会【議】員というのだから力なく笑うしかない。88年2月の宮本顕治殺人者発言事件では日共正森の発言に己が割り込んでおいて「質問された」「日本共産党の方から喧嘩を吹っかけてきた」(同事件では私はハマコーの支離滅裂ぶりよりも日共正森の突然のハプニングにも関わらず息をする
ように流れ出す詭弁対応の方が驚異だった。オウム真理教よりも日共議員の方がはるかに皆同じ喋り方をする。どれだけビデオ洗脳教育を受けてるのだろう)。ハマコーの核抑止(この言葉は知らぬらしく「安全保障条約」といっている)論。「万一我が国に核攻撃を加えた者に対しては核の報復攻撃をしてもらって核からの安全性を保全する」。ハマコー曰く、「直間比率の改正」の目的は国民の税負担の軽減。「経済協力」の無償とは無利子の意味。日本は自衛権を放棄している。増税によって内需を拡大する。全斗煥は大統領辞任後「苛斂誅求を加え」られた。
速読能力が死ぬほどほしかった……。
積ん読本が増えていくばかりです。
よかったらブログの「読書録」のところだけ読んでみて下さい。
よろしくお願いします。
❎レビューへの批判について❎
実社会で、全くの初対面でいきなり謗られたことはありますか。ありませんよね。街を歩いていてすれ違いざまに顔に唾を吐きかけられたことがありますか。ありませんよね。他人のレビューにいきなり汚い言葉を浴びせるのはこれと全く同じ行いだということをまずご承知おき下さい。人への態度として、マナーとして、これ以上非礼千万な行いはないと考えます。私のレビューを謗る人は、その著者のファンと類推されますが、まず見ないで下さい。私に関わらないで下さい。私は非常識な人間と関わることを人生最大の不快事とする者です。ブロックでもして下さい。誹謗ではなく批判したい方は、レビューのどの箇所を、どういう根拠に基づいて批判するのか明記して下さい。私は少なくとも批判する人の10倍は精読しています。ただケチをつけたいだけの、レビューの批判に名を借りた誹謗はお断りします。
この機能をご利用になるには会員登録(無料)のうえ、ログインする必要があります。
会員登録すると読んだ本の管理や、感想・レビューの投稿などが行なえます
「ひとつひとつの事物」の「特権」性を「多数の真理」とする。だが言語を初めとする文明こそ一般化の昇華なのであって、オウム真理教や共産主義は文明の成果を利用する、ルソーやアーミッシュは拒絶すると旗幟を鮮明にしているのに、カミュはそれこそ「自然に帰れと叫んだルソーから人間は四つ足で歩くべきだという結論を抽き出」す以上の一般化否定をしながら卑怯にも旗幟を鮮明にしない。空論なのだ。そもそも逆説を濫用、即ち0=∞という観念で一般化の精華たる言語を用いて「論証」しようというのだから何重にも無茶苦茶である。山川健一『みん