後半この暑さでバテたがまあまあか。一日一冊を目標として出来るのは無職だから。読書のために人生はあるというような生活。2023年8月の読書メーター 読んだ本の数:31冊 読んだページ数:8375ページ ナイス数:793ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/56191/summary/monthly/2023/8
一章が男との旅なのだが、結婚式に招待されて、その後に男が動物園のコヨーテ小屋で死んだという。それの舞台化だろうか?三章になって、ジョナス・メカスの『リトアニアへの旅』のビデオを見て感動して手紙を出したことが語られる。それは「美とは何か?」という唐突の質問だったが、メカスが絵葉書で返事をしてくれて「美は後悔することだ」と書いてあり、それに刺激されて根源を求める旅をしているのだとわかる。遠きにある「ウル」とはその根源性のことだと思う。その原初の名前を求めてのモノローグ的旅日記のような物語。
死んだ娘が生き返ったというのが謎だった。神はこの女の信仰を考えてのことではあるまい。この不信心者に神の力を示したかっただけなのか?医者に対する当てつけか?堂々巡りしてしまうが、芥川がこれを書いたのが一番の謎だった。
厳密に言うとネオ・リアリズムとなるのだが、ペローやグリムの童話を紹介しているように、そういう童話や寓話に入り込んでしまう少年時や青年時の話。ペローやグリムの童話が子供のためにあるのではなく、リアルな残虐性を帯びているのはその社会を描いているから(ペローの「あかずきんちゃん」は狼に喰われておしまい、そのあと説教のような教訓になると言う)。だから原作は今でもけっこう読める(現実世界を感じることが出来る寓話なのだ)。過去の文学が古びない今でも読まれ続ける理由だ。
むしろイスラエルが出ていったあとにより強固な支配が始まったと言う。今のパレスチナのどうしよもなさはアラファトが招いたというような。実際にその場にいないのでこのへんの歴史はよくわからない。サイードもパレスチナは諦めてアメリカに棲んでいる。祖国追放者というより祖国放棄者と言っていた。国家に重きを置かない根無し草(アナーキスト)なのかもしれない。自身はアメリカの市民権を得ているが母親がないために病弱なのに追い出されようとした体験が国家に対する不信感なのかな。
敗者となったドン・キホーテが牧歌的なイメージをサンチョに語るところなんてドン・キホーテの詩人らしさを現している。いまさら騎士道でもないだろうと批評していたサンチョ・パンサもそのイメージの虜になってしまうのだ。そして帰還してドン・キホーテは詩の中にしか居らず、本名のアロンソ・キハーノに戻る(狂気からの帰還)。それはすでに一人の詩人の臨終でしかなく、大いに胸に込み上げてくるものがあった。批評家であったサンチョ・パンサもドン・キホーテの遍歴の従者だったことに気がつくのだ。そして読者も。
終章で示される詩「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる」という「私」は作者なのだが、「私ら」はその後続者であり、ラストの詩が著者からの遺言めくのだが、もともと大江健三郎は詩を書きたかったのかと思う。しかし、散文的世界(小説や批評)に現実があるわけで、その対峙する世界として小説を描き続けた。それが死に憧れる作家の生きる道で、妹アサが古義人が自死しようとするのを助け出す話が暗示しているように、そうした女性の生き直す力が強く出てくる作品。女子供は従者の立場だったのが逆転していく。
彼女と仲直りするために「平和」と入れ墨を掘るはずが「中和」になってしまったおっさんラブな方向性は、日本の演歌で無理やりカラオケで女の子とデュエットするオヤジではないんだろうなということは感じられた。UKロックのノスタルジーさを引きずりながら太陽は傾いていく。
例えば甘粕が妻を表に出さずいたのは家父長制の悪しき姿であると思う。一方大杉の妻野枝はどうだろうか?そこに大杉一家を惨殺せざる得ない甘粕の本性が見えてくるような気がする。アメリカ国籍の甥も二重国籍という甘粕には許されない存在のである。この事件がアメリカの圧力によって明らかにされたという過程は、今に繋がることかもしれない。隠蔽国家であり法治国家とは言えない姿がそこにあったのだ。
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彼女と仲直りするために「平和」と入れ墨を掘るはずが「中和」になってしまったおっさんラブな方向性は、日本の演歌で無理やりカラオケで女の子とデュエットするオヤジではないんだろうなということは感じられた。UKロックのノスタルジーさを引きずりながら太陽は傾いていく。