2024年9月の読書10冊2984ページ5273ナイス ★先月→ https://bookmeter.com/users/822995/summary/monthly/2024/9 鉱工業生産が8月落ち込んだり、首相に経済が皆目興味ない人迎えたけど、取り敢えず私は元気です。雨のリスクあるんで出かけるときは、雨戸閉めて行くんですが、帰ってくるとムワッ~と。スマート家電みたいなシャレオツなもんは持っとりやせん。でも、窓開けると直ぐ室温下がるんで宜しいかと。今月もお願いします。
政権交代を可能にするオルタナティブな態度を野党を取らせ、対立する多数のメディアの中にあっても国民のリテラシーが一定保たれていることについては、日本との対照で羨望を禁じることが出来ません。紹介されている2024年の総統選での民進党選挙放送は、選挙広告を越えて台湾デモクラシーの持つ普遍性への誇り・信頼を示すもので、ここだけでも一読の価値はあります。この他、米台の取った二重国籍制度などが功を奏して、米国の台湾人社会の間に台湾民主化の芽を育て、またワシントンに対し日本を凌駕する影響力築くに至った事情(5/6)
について興味深く読めました。 (4)ただ、先に触れたアイデンティティの多重性などから、国勢が余りに違い過ぎる日本に台湾のこれまでの経験がストレートに当てはまるとは思えません。選挙前には国政の空白期間が出来るにも関わらず、未だに開拓時代からの流れを頑固に墨守している米国も含めて、選挙制度やそれにまつわる各種活動のあり方はその国の文化そのものであり、当該国民がその気にならねば変え難いものである、ということも改めて感じた次第です。ボリュームあり大変でしょうがおススメの一冊。(6/6)
で被収容者を次々と使い潰すところが悍ましい。パウルの非道の遂行を押し付けられる被収容者で死体処理係のシュミルが第3の視点人物として登場するのは、ドイツ人達の無自覚な残酷さをあからさまにするための必然と言えます。作中、ハンナやトムソンもこの戦争が敗戦に終わることを認識してはいる。だが、トムソンが英国人捕虜を経由したある企み(失敗)を行う以外、目前の事態を改善する手立ては何ら取られることは無いのです。 (3)ハンナの初恋やトムソンの叔父に擬せられた実在人物マルティン・ボルマンが行った殺害など(3/4)
時系列を遡って人物像を掘り下げることが出来るのが映画よりも小説の強みかもしれません。痴話喧嘩のような凡庸な毎日を繰り返しながら、自分たちとは異なるカテゴリと認識した人々に対しては虫の如く潰すことも顧みず、時に正当化できる俗悪さを持つ人間的存在を描いた作品であることは、両者とも間違いのないところでしょう。そして、また自分たちが「潰される存在」にいつ回るか分からないことも含めて視野に入れておかねばなりますまい。(4/4)
皇后が政治的・軍事的権力を蓄えてゆき、文帝の皇后・独孤伽羅や唐の時代に入ってからの武則天の活躍は当然と受け止められること等が例として上げられましょう。後世の価値観から最良の君主と崇められる唐・太宗と、最大の暴君とされる煬帝との共通性・連続性を指摘しているのもその一つと言えます。 (3)著者もあとがきで触れられていますが、同じ中公新書から同時期に相次いで出された会田大輔『南北朝時代』 https://bookmeter.com/reviews/103780035 、(4/5)
森部豊『唐』 https://bookmeter.com/reviews/114744430 と合せて読むことで、南北朝時代から隋唐帝国を一連なりで理解し、大運河などの整備により今後益々巨大化していく「中華」を準備した期間として受け止めることが出来ました。是非、同新書さんにおかれては引き続き前後の王朝史を編まれて世に送り出して頂くことを期待しますので、よろしくお願いいたします。(5/5)
積ん読、借り本優先なので、感想のアップは遅くなります。
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で被収容者を次々と使い潰すところが悍ましい。パウルの非道の遂行を押し付けられる被収容者で死体処理係のシュミルが第3の視点人物として登場するのは、ドイツ人達の無自覚な残酷さをあからさまにするための必然と言えます。作中、ハンナやトムソンもこの戦争が敗戦に終わることを認識してはいる。だが、トムソンが英国人捕虜を経由したある企み(失敗)を行う以外、目前の事態を改善する手立ては何ら取られることは無いのです。 (3)ハンナの初恋やトムソンの叔父に擬せられた実在人物マルティン・ボルマンが行った殺害など(3/4)
時系列を遡って人物像を掘り下げることが出来るのが映画よりも小説の強みかもしれません。痴話喧嘩のような凡庸な毎日を繰り返しながら、自分たちとは異なるカテゴリと認識した人々に対しては虫の如く潰すことも顧みず、時に正当化できる俗悪さを持つ人間的存在を描いた作品であることは、両者とも間違いのないところでしょう。そして、また自分たちが「潰される存在」にいつ回るか分からないことも含めて視野に入れておかねばなりますまい。(4/4)