英語はあまり得意ではない(得意だと思っていた時期もあったが)。
それでも映画にて「存在のたえられない軽さ」を見たときは、原作をぜひ読みたいものだと思った。
当時、邦訳はまだ出ていなかったので英訳を買って読んだ。
The Unbearable Lightness of Beingである。
わりとやさしく読めたと思った。
それに味をしめたのか、おなじくミラン・クンデラのImmortalityの仏訳を買って読もうとした。
しかしそう簡単には読めるものではないのである。
おなじことはエーコでも発生した。
The Name of the Roseを英文で読もうとしたのである。
カトリック英語には詳しいはずだった。
しかし哀しいかな、読み進められる道理はなかった。
ドリス・レッシングのThe Golden Bookを読み始めたときは決死の覚悟であった。
だが案の定、なかなか読み進められない。
一年以上もかかってようやく終える(正しくは二年以上)。
そんなていたらくな生き方しかできないわたくしであるのが哀しい。
(そういえば、マルコム・ロウリーのUnder the volcanoのペーパーバックをもらったことがあった。字が小さいので、ちょっと引く。しかし西訳のBajo el volcanと並行して読むことにした。なんとか読み終えた。しかしあとには頭になにも残っていなかった)
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そんなときに当のルペ・マリンと結婚したのだが文字通り家に帰るのは寝るだけというブラックぶり。そんななかでルペ・マリンはミューズとして新進の画家、詩人たちから偶像化されるほど。 (3) しかしルペ・マリンと詩人との暮らしは悲惨な結果へといたる。ルペ・マリンはディエゴとのあいだに二人の娘をかかえていた。離婚ののち、つまりディエゴがフリーダと暮らすようになってもディエゴのところに入り浸っていた。もっともディエゴの屋敷はサロンのような性格も備えていた。
ルペ・マリンは料理の腕には評判があって、いわばディエゴたちの食事の世話もしていたと思われる。ただこのルペ・マリンがくせ者で、性格が尊大で人と折り合うのがむずかしかったにもかかわらず、影響力を誇った。 (4)ディエゴ、フリーダ、それにルペ・マリンときては、メキシコの二十世紀前半の文化人、アーティストが勢揃いということになる。そこは著者そのものがメキシコ文化社交界にだれよりも通じていた人物であるがゆえに、いままでだれも記したことがないような綿々とした事実が語られる。
文化人ということでは、わたしなども仰ぎ見るような眼差しでずっと眺めてきたものの、この著者によってすさまじく戯画化される。 (5)さらにはディエゴ・リベラの娘たち、その配偶者、孫たち、細々とした事実が積み重ねられてくる。ディエゴという巨大な姿を引き摺っていくひとたち。そこでも戯画化は徹底されるものの、血と涙の物語とも化し、あらま、これはメロドラマになってしまうわ、とはらはらしているところで膜が降りる。月並みだが畢生の大作、ほとんどだれも知らないようなことが明かされているのだ。