ミラーリングやミラーニューロンが主な標的で、実に都合のいいものがあると感心する。共感性と道徳性の関係は大概の場合高くない。また高い場合でもそれ以外の要素を排除し切れていないと言う問題がある。共感性が低い人間がいじめの標的にされやすいと言うのはこれまでの人生で実感させ続けられてしまっているのでよく分かる。 第3章。善きことをなす上で共感がむしろ悪い結果をもたらす場合について。ここでは「功利的利他主義」が取り上げられるが…これに対するバロン=コーエンの批判が引用されているが分かりやすい詭弁だ。→
誰もそんな話しはしていない。 幕間I。共感の重視と政治的立ち居地について。最初に断り書きがあるが、これは現実の定義の問題点をあげつらったもので、実際の定義とは違うよと言う代物かと。本来であれば「保守⇔リベラル」という対立軸は間違っている。そのせいかその後の内容も突っ込み所が満載だ。 第4章。これまでの公共政策というマクロ的な事ではなくプライベートにおいて共感はどうなのか。ここで例示されているハンナという女性は所謂「HSP」ではないかと思うが…実に疲れそうだ。→
また関心を向ける相手として身内とそれ以外を分けて前者を優先するのは当然だと著者は言う。それに同意する人としてディッケンズを、反対する人としてガンジーを挙げている。この対立は古代中国で既にあり、孔子と墨子がそれ。社会へ与えた影響力の差は歴然としているので、人類に普遍愛はあまりにも困難だった。 第5章。暴力と残虐性の原因は共感の欠如なのか。もちろんそれは否定されるが、サイコパスに関する箇所はやや気になった。→
元より気軽に使うべきでないにも拘らず実に乱用されている現状を見ると、恐るべきはサイコパスではなく自らの理解の埒外にある人間に”サイコパス”のレッテルを貼る人間の方だと言わざるを得ない。私の読書感想を読んでいれば分かると思うけど、この単語を全く或いは殆ど使っていない筈だ。20年以上前に精神病患者・その家族・及び支援者の会がテレビでこの単語を連発する高橋紳吾(故人)という精神科医に抗議を行い、以後マスコミでは何年間も事実上の放送禁止となった。なぜ共感性の低い人間がこんな事を書くのか、我が事ながら興味深い。→
第6章。積極的に理性や知性を擁護する。ここでは自由意志などないという説を批判する。要するにそれは例外的でしかないと。また道徳的な思いやりや気遣い、さらに自制を重視する。 私は「行動原理主義」ではないし今後も組するつもりはないので「功利的利他主義」が性に合う。相手ではなく自分自身のために行う偽善性は個人的に耐え難い。例えば川内美彦『尊厳なきバリアフリー』を読んでみればいい。他人の善意に依存するような制度は欠陥品だ。ただ本書は私の意見に大変近いが…所々ひっかかる。→
その引っかかる所にこそ確信があるのだと精神分析家なら言いそうだ。
読書傾向:日本の古典 / 日本史 / 民俗学 / 政治 / オカルト / 精神医学 / 青空文庫 / 少女マンガ / 百合漫画 / 萌え4コマ思想信条:個人主義の保守派 / 反帝国主義 / 反戦 / 反リベラル兼反権威主義 / 易(経)趣味:写真撮影 / お菓子作り / ジャム作り / 漬物作り
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ミラーリングやミラーニューロンが主な標的で、実に都合のいいものがあると感心する。共感性と道徳性の関係は大概の場合高くない。また高い場合でもそれ以外の要素を排除し切れていないと言う問題がある。共感性が低い人間がいじめの標的にされやすいと言うのはこれまでの人生で実感させ続けられてしまっているのでよく分かる。 第3章。善きことをなす上で共感がむしろ悪い結果をもたらす場合について。ここでは「功利的利他主義」が取り上げられるが…これに対するバロン=コーエンの批判が引用されているが分かりやすい詭弁だ。→
誰もそんな話しはしていない。 幕間I。共感の重視と政治的立ち居地について。最初に断り書きがあるが、これは現実の定義の問題点をあげつらったもので、実際の定義とは違うよと言う代物かと。本来であれば「保守⇔リベラル」という対立軸は間違っている。そのせいかその後の内容も突っ込み所が満載だ。 第4章。これまでの公共政策というマクロ的な事ではなくプライベートにおいて共感はどうなのか。ここで例示されているハンナという女性は所謂「HSP」ではないかと思うが…実に疲れそうだ。→
また関心を向ける相手として身内とそれ以外を分けて前者を優先するのは当然だと著者は言う。それに同意する人としてディッケンズを、反対する人としてガンジーを挙げている。この対立は古代中国で既にあり、孔子と墨子がそれ。社会へ与えた影響力の差は歴然としているので、人類に普遍愛はあまりにも困難だった。 第5章。暴力と残虐性の原因は共感の欠如なのか。もちろんそれは否定されるが、サイコパスに関する箇所はやや気になった。→
元より気軽に使うべきでないにも拘らず実に乱用されている現状を見ると、恐るべきはサイコパスではなく自らの理解の埒外にある人間に”サイコパス”のレッテルを貼る人間の方だと言わざるを得ない。私の読書感想を読んでいれば分かると思うけど、この単語を全く或いは殆ど使っていない筈だ。20年以上前に精神病患者・その家族・及び支援者の会がテレビでこの単語を連発する高橋紳吾(故人)という精神科医に抗議を行い、以後マスコミでは何年間も事実上の放送禁止となった。なぜ共感性の低い人間がこんな事を書くのか、我が事ながら興味深い。→
第6章。積極的に理性や知性を擁護する。ここでは自由意志などないという説を批判する。要するにそれは例外的でしかないと。また道徳的な思いやりや気遣い、さらに自制を重視する。 私は「行動原理主義」ではないし今後も組するつもりはないので「功利的利他主義」が性に合う。相手ではなく自分自身のために行う偽善性は個人的に耐え難い。例えば川内美彦『尊厳なきバリアフリー』を読んでみればいい。他人の善意に依存するような制度は欠陥品だ。ただ本書は私の意見に大変近いが…所々ひっかかる。→
その引っかかる所にこそ確信があるのだと精神分析家なら言いそうだ。