中島敦「山月記」、夏目漱石「こころ」、小林秀雄「無常ということ」は既読だったが、この機に、YouTubeで公開されている朗読を聴きながら再読した。
88頁の2つの図 ”同じ場所の同じ物がどうみえるか(ユクスキュル『生物からみた世界』より) (上)人間が見た街路の風景。 (下)同じ風景がハエにはどう見えているかをユクスキュルが想像して描いた絵。 90頁 ”それぞれの動物たちは、イリュージョンによって自分たちの世界を構築し、その中で生きている。そしてその動物たちにとって重要なのは、その動物たちにとっての環世界なのである。” という日高敏隆の評論「木の葉と光」に続いて、100頁 横光利一の短編小説「蠅」 という構成
【朗読】夏目漱石『こころ』下/語り:西村俊彦 https://www.youtube.com/watch?v=QG5-KVym5h0&t=19515s 朗読に聴き入りながら、じっくりと文章を目で追っていくと、自分がこれまで読みとばしてしてほんの上っ面しかでしか読み込めていなかったことに気づかされる。漱石の筆になる「先生」の心理描写は微に入り細に入りで、まさに「こころ」という小説のタイトル通りだと思い知る。
本教科書では、定番の「下 先生と遺書」の35章途中から49章までが掲載されている。 一見して文面には、会話を示す「」(鉤括弧)が極めて少ない。それが、内面的心理を描いているような印象を醸し出している。といっても、意外かもしれないが、会話が少ないわけではない。ほとんどの発言や会話は「」なしで間接話法であるかのように表現されている。そして、35途中~40章のあいだ、「」付きの表現がただの一つもないのだが、それがやぶられるのが41章、「先生」が言い放った「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉である。
もう一つ、朗読と対照しながら読んでて気がついたこと。教育上、仕方のないことかもしれないが、44章において、”悲しい事に私は片眼でした。”という一文が三省堂の教科書では削除されていた。他の教科書ではどうなっているのだろう...。
哲学的に突きつめて考えてみると「時間とは自己であり、空間とは他者である」
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中島敦「山月記」、夏目漱石「こころ」、小林秀雄「無常ということ」は既読だったが、この機に、YouTubeで公開されている朗読を聴きながら再読した。
88頁の2つの図 ”同じ場所の同じ物がどうみえるか(ユクスキュル『生物からみた世界』より) (上)人間が見た街路の風景。 (下)同じ風景がハエにはどう見えているかをユクスキュルが想像して描いた絵。 90頁 ”それぞれの動物たちは、イリュージョンによって自分たちの世界を構築し、その中で生きている。そしてその動物たちにとって重要なのは、その動物たちにとっての環世界なのである。” という日高敏隆の評論「木の葉と光」に続いて、100頁 横光利一の短編小説「蠅」 という構成
【朗読】夏目漱石『こころ』下/語り:西村俊彦 https://www.youtube.com/watch?v=QG5-KVym5h0&t=19515s 朗読に聴き入りながら、じっくりと文章を目で追っていくと、自分がこれまで読みとばしてしてほんの上っ面しかでしか読み込めていなかったことに気づかされる。漱石の筆になる「先生」の心理描写は微に入り細に入りで、まさに「こころ」という小説のタイトル通りだと思い知る。
本教科書では、定番の「下 先生と遺書」の35章途中から49章までが掲載されている。 一見して文面には、会話を示す「」(鉤括弧)が極めて少ない。それが、内面的心理を描いているような印象を醸し出している。といっても、意外かもしれないが、会話が少ないわけではない。ほとんどの発言や会話は「」なしで間接話法であるかのように表現されている。そして、35途中~40章のあいだ、「」付きの表現がただの一つもないのだが、それがやぶられるのが41章、「先生」が言い放った「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉である。
もう一つ、朗読と対照しながら読んでて気がついたこと。教育上、仕方のないことかもしれないが、44章において、”悲しい事に私は片眼でした。”という一文が三省堂の教科書では削除されていた。他の教科書ではどうなっているのだろう...。