8月は『リアル』。9月は待望の『HUNTER×HUNTER』最新巻。表紙は(38巻の中では登場しない)正拳突きするゴン。鳥山明先生への追悼という説があるが、確かにね……。また『言霊の幸う国で』は、圧倒される思いで読み耽って、刺激的な読書になった。2024年8月の読書メーター 読んだ本の数:42冊 読んだページ数:11034ページ ナイス数:6112ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/1037983/summary/monthly/2024/8
《結婚相談も、書店員にお任せ!?》『水は海に向かって流れる』<高校生の直達が、家族から離れて始まる家族の物語。シェアハウスとその住人たち、高校の同級生も魅力的で、まるで映画のよう。普段、漫画を読まない方にもぜひ読んでほしい名作!>。《お母さんだってだれかの子どもです》『あんなに あんなに』<人気絵本作家、ヨシタケシンスケの新境地!この絵本は、本当にすごい。当店のスタッフの母たち、入荷した本を読んで開店前に全員泣きました(笑)“あんなにあんなに”という言葉のリピートで、こんなに心が震えたことはありません>。
【星子との暮らしでわかった。「頼り頼られるのはひとつのこと」だと】<「自立」とか「依存」という概念を使わない。人は必ず、頼り、頼られている。で、私たちの実感としては、私たちが星子に頼ってるんですね。星子が私たちに頼ってるかどうかは、「頼っている“らしい”」としか言えない。そこはやはりわからないんですが、私たちは星子におそらく頼られながら、星子を頼りにしている。「星子がいての生活だよね」って/星子がいることで他のいろんな人に頼り、頼られながら、昨日と変わりがあろうはずもない今日という日が過ぎていく>と――
【「聴(ゆる)す」=心をひらいて聞く】<「ゆるす」は「ゆるい」「ゆるゆる」と元は同じらしいんですが、「聴す」と書いて「心をひらいて聞く」意味合いがあるんです。普通は、相手に注意を集中させて熱心に聞くことが良しとされますよね。でも「聴す」の聞き方はそうではなくて、ぼーっと聞く。心をひらいてぼーっと聞いていると、相手もしゃべっているうちにリラックスしてきて、心をひらく。そこから、相手のことを受け入れる、いいよって言う、「許す」の意味にもつながるわけです。/大切なのは、緊張の反対の「弛緩」っていうこと>だと――
【豚舎】<臭い ブタ屋に 大満足で 心をこめて 働く姉妹 仔豚よ おいで 洗ってあげヨ 人に知られぬ 犠牲の中に 謙遜の谷 愛の山 徳のたかねに たどりつく>。【仕事の合間】<合図で仕事の手を休め 馬ちゃん おまえも おあがりよ 先の仕事は まだまだだから 空にも 海にも野辺の草にも あふれる 神の いつくしみ 讃美に 心は とけてゆく>。【祈り】<静かな祈りの ひとときは こよなく楽しき 憩い時 壁に並ぶ聖画の下に 種の御苦難をしのびつつ はては 聖堂の ランプのもとに 神と交る 天のひととき>。
【食堂】<朝は断食 お昼は粗食 一体何を 食べるのかと 好奇心は動くでしょ 代り代りの 週番で 皆が給仕の 食卓で ご飯をくばり お茶を入れ 不足はないかと 見て回る 読書の声を きき乍ら ナザレトの家 思いつつ 慎ましくとる>。【お年寄りの修道女】<私は百までゆきますと 杖を頼りに お御堂え 死ぬ迄 聖務に忠実に もっと元気な オバーさま トマト作りが 大得意 重い仕事は 出来ずとも 何かお役に立ちたいと せっせと 車に糸かける 苦難の御主の御傷を 己が体に担いつつ あく迄ささげる修道女>。絵も味がある
【日本は、建築物すらも余っていく少子高齢縮小社会に突入した】<これまでのように次々と新たに作っていくような時代ではすでになくなってきた。むしろ、どうやって建設を減らし、町をコンパクトにしようかという時代であり、20世紀中に築き上げた住宅地の存続すらも危ぶまれるようになってきた。そこでようやく、建築物を、住宅団地を、町を、長期に維持するための要件とは何かが、はじめて真剣に問われるようになってきて、私のような「住みこなし研究」が、ただの趣味的研究から、少しは役に立つ研究のように見えはじめのだろう>と。確かに!
【人は住宅にも住むが、町にも住む】<住み慣れた地域というのが、すなわち、本書で主題としている「住みこませる町」である。独りの人生における多様なニーズの変化に対応できるような、薬箱のような町。町の中に多様な種別の住宅が提供され、そこを循環的に引っ越せるような町。家族資源、地域資源、制度資源のいずれをも使いながら「住み慣れた地域」に住み続けることが可能な町。これが目標にされなければならないだろう。こうした目標は、地域包括ケアシステムを受け入れる器をつくり上げるための目的でもある>。建物だけでは、ダメであると。
【日蓮の神祇観と本地垂迹説】<鎌倉期に興った新宗派のうち、もっとも積極的に神祇思想との習合を理論化したものは日蓮宗だった。しかもそれを古代以来発展し来った本地垂迹説をそのまま利用したのではなく、日蓮特有の解釈と意義づけによって独自の神道論を生み出し、これが後世、宗内で様々な方向発展する/神祇の規定や機能、神祇への信者の態度は本迹思想よりかなり別の立場を生み出した。まず日蓮の本迹説は全ての本地が久遠実成の釈尊であるとの形で簡素化されている>と。ここの詳細な研究として藤井学『日蓮と神祇』がある。
【曹洞禅の神祇接近】<鎌倉時代に発足した諸宗派中、神祇信仰にもっとも縁遠いかにみられた禅宗は南北朝期に入り、漸く本地垂迹思潮の影響を受けるようになった。それは道元の創めた曹洞禅であって、彼の寂後、民衆化がすすむにつれ、神祇信仰の導入がはかられてきた。/道元は中国直輸入の純粋禅を唱え、厳重な出家主義を守り、権力者への接近を避け、加持祈祷を排したから、教団運営にあたっても経済的な困難さに逢着し、苦闘の道を歩まねばならなかった。/ここに道元以後の教団は大きく変質するのを余儀なくされた>と。教団運営のためねぇ……
【「すごい傾聴」は、相手が無自覚、無意識のまま「曖昧に」して目を背けていることを「明らかに」することから、気づきが起こる】<気づきとは「問題の原因」や「解決策」の気づきではありません。本当に自分の気持ち。自分が本当はどうしたかったのか、どうしてほしかったのか。自分の本心にきちんと目を向け、それを一切否定せず認め共感するのです。それこそが本当の意味での「自分を大切にする」ということ。すると、自己否定や禁止令が解け、ごく自然に自分のしたかった方向性が「降りて」くる>。「曖昧言葉」の裏には、「本音」があると――
【「言葉」を削って短く話す】<人は自信のない時に言葉が多くなります。そして聴き手の言葉が多くなると、逆に話し手の言葉が減っていきます。聴き手が多く話すと話し手の感情が引っ込み、理性モードに入ってしまうからです。せっかくここまで苦労して「感情の表出」を準備してきたのに、聴き手の言葉が多すぎて冷めてしまうのです。「すごい傾聴」では、相手の「(特に抑圧しがちなネガティブな)感情」を引き出し、それを存分に味わい肯定していくことが重要ですが、その感情を引き出すために最も重要なことは「聴き手が言葉を削る」こと>だと。
【Q.認知症の人に包丁は大丈夫?】A.包丁に対する認識のある人ならば使用が可能です。中程度の認知症であれば、手続き記憶が比較的保持されており、数年間料理をしていない場合でも使えることが多い。これまでの料理経験や情緒の安定の程度により個人差があるが、集中して作業に取り組み、達成感が大きく得られる。【Q.簡単にできることは?】A.<工程をすべてこなすことが料理活動ではない。下拵えを一緒にするだけでもよい。重度で参加が難しい人には、味見だけでもしてもらうと参加感を味わえる。味噌汁などの一部をしてもらってもよい。
【言葉かけ】①敬う気持ちを忘れない。②「教えていただく」という姿勢で。③「何から切りましょうか?」など、各自のやり方を引き出す。④「分からない」「教えて」と言われても、「煮込むのですが、どう切ればいいのでしょうか?」など、答えを引き出す言葉かけをする。⑤不安になっている場合は「どのようにしましょうか?」ではなく、「~するのはいいでしょうか?」と。⑥絶対言ってはいけないのは「危ない!」という言葉。⑦作り方などが多少間違っていても、受け入れる気持を持つ。⑧計画通りに作るのが目的ではなく、過程(会話)を楽しむ。
【『ガラスの仮面』は、エンターテインメントとしてのスピード感の虜に】<何が起こるかわからないハラハラ感があって、それまで自分が読んでいた少女漫画では感じなかった衝撃を受けましたし、演技や俳優というものを題材にこんなに面白いものが描けるんだと驚きました。/主人公マヤのライバルである姫川亜弓さんが大変すばらしいキャラクターだったことも大きいと思います。『ガラスの仮面』を読むまで、私の中にある少女漫画のライバルキャラの立ち位置は、お金持ちで意地悪というもので、亜弓さんも登場してから途中まで>は、そうだったのに!
【『美味しんぼ』の衝撃】<読めば読むほど話にも絵にも食への執念を感じ取れたのも魅力でした。人物の顔はすごく簡単なのに、食べものの絵は細密。写真から絵を起こして描くにしても、描く側が食べ物を好きじゃないと、美味しそうには見えないんですよ。でも『美味しんぼ』の料理はどれも本当に美味しそうで、文章だと視覚には訴えられないので、これは漫画じゃないと表現できないなと。漫画の新しいジャンルができたと思っていましたし、何より食べ物のことばかり考えている人は私だけじゃなかった!という喜びもありました(笑)>と。うん 😉
「キューバ危機」なんかあった小学生の頃からずっと、いつ核戦争で人類が滅ぶか、それこそ“杞憂”してきましたから、存外、人類健闘してんじゃね?!って感じでしょうか……
【ユリとバラ】<白く香しいユリは、聖書の中で純潔、無垢、神との近さ、昇天の象徴として何度も登場し、修道院でも尊い花とされ、マリア信仰と結びつけられるようになりました。/マリアの象徴として用いられたのがバラです。バラは完璧、再生、豊穣を表し、新エバとされたマリアにこそ相応しい花だったのです。棘のあるバラはキリストの荊の冠を想起させ、イエスの象徴となる一方、マリアは王国のシンボルであるバラの冠姿で描かれるようになります。棘は原罪の象徴ですが、罪を背負わぬまま生まれ、妊娠したマリア自身が「棘のないバラ」>と――
【寄生生物はサタンやルシファーに扇動され――】<中世、寄生生物による栽培植物の損害は、神学的問題を引き起こしました。自然が神により創造されたからには、神の完全無欠性を映し出していると考えなければいけません。とすると、エンジムシやアブラムシなどの破壊的侵入生物の存在をどう説明すればいいのでしょう。寄生生物は原罪や人間の堕落と結び付いた悪の表れと考えるべきでしょうか。あるいはキリギリスの来襲は、何らかの過ちを制裁するための神の罰なのでしょうか。/修道士たちには、祈禱以外の寄生生物対策はなかったのでしょう>と。
【『トーマ君、かなちゃんのために太陽消して~』って言って】<「だって、太陽消してっ、って、まじでっ」「なんなん?銀河レベルのお姫ですか?」麻耶はいつも相手が言ったことをそのままなぞった。そしてその後、肯定的な驚きも否定的な揶揄の場合も必ず「まじで」をつける。麻耶にとっては他人から発せられる言葉は全部「まじで」案件だ。トイレが近いことも「まじで?」だし、前髪を切ろうと考えていることも眠いことも「まじで!」だ。それにひきかえ、透子はきちんと自分なりの解釈を展開させて返事をする>と。こんなん、まじでええわぁ~⇒
【異性の交流に積極的なクラスメイトの女の子の発言には、思惑が隠れている】千尋の考察。<友人といるときの普段のキャラクターを大幅にはみ出して、異性に「かわいい」と思われるためだけにふるまう生き物に成り下がっていることを自分でも理解していると示すこと(示しながらもう一度自分でも再確認すること)。そして、年上の大学生と関わりがあることを、自慢していると思われないように自慢すること。さらに、昨日の特別でスペシャルで甘美な時間を、友人との会話の場を利用しながらもう一度時間をかけてなぞってみせること>と。そっかぁ~
【騒ぐ、暴れる】<34、5歳の頃から酒量は増え、名人のタイトルを獲った昭和37年以降、一段と拍車がかかりました。毎晩、新宿だ、銀座だ、赤坂だと飲み歩いているようでした。家に帰って来るときは、常に正体をなくすほどに酔っぱらっています。靴をなくして靴下のままで帰って来るようなことがよくありました。上着をなくしてきたこともあります。帰って来るときには洋服はいつも汚れて、あちこち鉤裂きだらけでした。辺り構わず寝転がったり、ふらふらとあちこちにぶつかったりしたのでしょう。あるいは喧嘩のせいだったかもしれません>と。
【私の人生、幸せだったかどうかと問われると、もっと幸せな生き方はいくらでもあった……】藤沢から、「最期まで俺の面倒をみてくれるのかあ。有難いなあ」などと言われることもある著者、晩年の感慨。<わたしは自分にできることをいつも精一杯やってきました。ですから、後悔なんかはしていません。ただ、もしこんど生まれ変わったら、結婚なんかしないで自由に生きたいと思います。まず小さいときからきちんと教育を受けさせてもらって、ちゃんとした職業を持って、同居相手の機嫌を窺うのではない、自分の生き方をしたいと思います>と。ええ。
ゆいまある様 そうなんです。現在5カ所で活動を続け、本年50周年を迎えます。もしご関心ありましたら、HP https://kyodogakusya.or.jp/ も覗いてください
【ヘンリーとマーサの恋バナ】ヘンリーの忸怩たる思い……。<自分の理想を追い求めることに必死で、世界を変革することに必死で、周りと歩調を合わせることも、身近な者の心に目を向けることもなかった。/当時のワシは理想主義者(あたまでっかち)で、信念を通せば世界は改まると信じてやまず、絵に描いた餅を意固地になって守っていた。教育は詮ずるに“他者を感化させようとする行為”である。/マーサとのケンカひとつ収められん奴が道化のように教育を語るのは滑稽だった。無力なのは教育ではなく、ワシ自身>。ノットエレガントだったと……
【人間はみな愚かで期待するに値しないと割り切るべき】ヘンリーが課した“この世から戦争はなくせるか”という論題に、生徒時代のドノバン・デズモンドは否定派を代表し、「戦争はなくなりません。歴史がそれを実証しています。この世から武器を一掃すれば解決するか。ノーです。なぜなら…人間は嘘つきだからです。“相手が本当は武器を隠し持っているかもしれない”その疑念が拭えぬ限り、終わらぬ鼬ごっこを繰り返すだけです。相対する者の本心がわからない。なぜならこちらも本心を隠しているから」と。ロイドはヘンリーから情報を入手すべき。
ご一緒出来ましたね(*^。^*)嬉しいです♪車椅子ユーザーとしての入学を相互確認しておいてあの行事の泥縄は学校も保護者も迂闊すぎだろ!とは思いましたが、描かれたその不慣れさこそが「これから」を創るのかなと。「(心の底から思う)もう、最高だぁ~」うんうん。出来る事としたい事、平等を支える配慮の重み、いろいろ潜んでいるのにカラリと爽やかで「年取った少年・少女」も一緒に遠くへ歩いて行きたくなる物語でした。
がらくたどんさん、あなたが書いた本書のレビューのコメント。<生じる問題も過激すぎず等身大のでも真剣な悩み事で、気づきの多い青春物語>に賛同します。泥縄感への違和感も。ま、学校というところは「インクルーシブ」を標榜しても、その障がい者には「わきまえる」ことを要求してる、ってことでしょうか。あれ、これは学校や障がい者に限った話ではないか……。高齢者とて、施設では「可愛いお年寄り」が求められるし……
【娘への遺書】<僕は、穏やかな自然死などは望むべくもないので、また病院死における無益な孤独と無効の治療を忌むものですから、君にこれ以上の迷惑をかけたくないので、ここに自分の「生き方としての死に方」たる自裁死を選ぶことにしました。そうした考え方については僕の書物群に何度も説明している通りなので、君は、たとえ同意されなくても、僕の気持ちは分かってくれると信じております。出来得れば、僕のことは早めに失念して、楽々悠々たる人生を送って下さい。お母さんへの世話のことを含め、君の両親への助力に深く感謝しています>と。
【「流民の末裔」と自己規定】<重要なのは、西部が生まれ育ちと無縁な、純戦後的な「保守」派の新世代だったという事実だ。否、厳密には無縁とは言えないかも知れない。何故なら、彼は故郷・北海道に対して、歴史の蓄積なき「日本のなかのアメリカ」という特別な意識を抱いていたからである。80年代に至っての保守派宣言以来、徐々にアンチ・アメリカの旗幟を鮮明にする西部の屈折した心情は、そうした「流民の末裔」、「氓民の子孫」の「実在しない何か」への止みがたい憧憬に根ざしていた。「幻像の保守」とは、その指標だったのである>と――
【役割が違うだけで、上も下もない対等な人間関係だ】芹沢は諄々と説く。「営利組織において、上から優しくする人間は、容易に上から殴りつける人間に変わるからだ。本物の家族と違って、会社における雇用関係はつまるところ、損得で結びついた疑似家族。いくら良くしてやっても社員が利益を上げなければ社長は、『優しい親』から『怖い親分』に様変わりし、『恩を返せ』『命がけで働け』とサービス残業もパワハラも当たり前のブラック企業になっていく。/おべんちゃらが巧いだけの無能社員を重用し、耳の痛いことを言う有能社員を避けがちだ」と。
【何もしなかった。電話ひとつ……】<母が病に罹ったと知ったときから憤っていた。焦っていた。母が、私を頼らないことに。何て、私は身勝手なのだろう。母の通夜葬儀は、実母ではなく他人のそれにかかわっているような気がして、情けなかった。たくさんのひとたちの嘆き。人となりを惜しむ会話。母を置き捨てた私には、語れぬ母。きっと父も、同じだった。家族と括られるはずの私達だけ、取り残されていた。「仕方、ないよね」愛していなかったわけじゃない。ただ、母に対して傲慢だっただけだ>と……。人生って、こんな苦い後悔の繰り返しか……
【彼の何もかもが、わたしのストレス】「4章 木槿は甘い」:不妊症治療の末に子どもを諦めた夫婦。妻の夫への思い。<小さなくしゃみ、咀嚼音。寝息に、寝言。トイレの後の便座の温もりと臭い。かつては何てことなかった、あるいは愛おしさすら感じたすべてが、わたしの心をいちいち苛立たせた>と……。わたしは子どもの頃…自身の未来として、結婚したら、この“夫”のように配偶者から思われ厭われるんだろうなぁーって想定してた……「結婚は人生の墓場」とも……。60年後、老夫婦で毎日語らいながら散歩する日がくる未来なんて、思いも……
えっ、そうですか。カーブスのHPには札幌載っていますが…。⇒ https://www.curves.co.jp/government/ <2019 年2月4日(月)、北海道札幌市(市長:秋元 克広)と株式会社カーブスジャパン(代表:増本 岳)は、札幌市の健康づくり事業での連携を推進するために「健康さっぽろ21の推進に関する包括的連携協定」を締結>ってありますから、札幌市民はいいなぁ~と思っておりました。
わーわーホントだ! どうしたら(どうなったら)利用できるのか調べなきゃ。ありがとうございます。札幌って特に冬場、特に年寄りは外歩くと滑って転倒骨折の危険も大きいので、運動不足解消にはジムの存在重要なんですよ(ジム行くまでがまた危険だけど(^-^;)。メンズカーブスにも期待!
【堂々と語る】<読んでいない本について気後れすることなしに話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を解放するべきである。これは家族や学校制度が押し付けてくるイメージであり、われわれは生涯を通じてこれにどうにか自分を合致させようとするが、それは無駄というものだ。われわれには他人に向けた真実より、自分自身にとっての真実のほうが大事である。後者は、教養人に見られたいという欲求――われわれの内面を圧迫し、われわれが自分らしくあることを妨げる欲求――から解放された者だけが接近できるのである>と――
【本をでっちあげる】<私に対して、金縁眼鏡の美学者に向かってするように、読んでいない本の話をしているとか、厳密に言えば書かれていない出来事を盛り込んだと言って非難する向きもあるかもしれない。しかし私は取り上げた作品について嘘をついていると感じたことは一度もない。作品から感じ取ったものをできるだけ正確に記述しつつ、自分自身に忠実に、またそれらの作品を援用する必要を感じた瞬間と状況に配慮しながら、いつも一種の主観的真実を述べてきたと自分では思っている>と。『吾輩は猫である』の迷亭先生が紹介されている、と感激!
そう♪ジュニアもだけどダーウィンの従兄弟のゴルトンも尊敬するダーウィンの「進化という自然選択の連なりの結果はランダムで必ずしも人間が思い描く進歩には繋がらない」って事を理解していたからこそ「ならば進化を進歩に」って人為選択による人間の品種改良実験に走っちゃったのかなと思いました。自然選択の中にある人が思いつけないアメイジングの残酷さと愉快さを忘れずにいたいです♪楽しかったです(^^)
【ユーモアというのは、単なる(高みに立った)ウィットつまり機知のことではない】<精神の高みに立ちたいと願うものの、それが叶わぬと自覚することに発する、ペーソス(悲哀)の感情を多少とも込めた会話法、それがユーモアということなのである。それを哲学用語で置き換えると「実存と実践」のあいだの緊張を乗り越えていくということに他ならない。つまり、生における内奥の心理と状況の中での決断を結びつける振る舞いをやってのけるという大人のやり方のことだ。/伝統の精神なるものの一部には、こうした諧謔の精神もまた含まれている>と。
【人間が生きるということは、常に絶えざる選択の過程である】<過程の最終局面において死に方の選択が待っている。逆にいうと死に方は生き方の総仕上げだということになる。そういうものとしての生き方を丹念に考えた上での病院死というものもあるではあろう。/ただ、そうしたことを綿密に考えないままに、病院死を自然死と呼ぶなどというフェイクの言葉遣いを含めて病院死を選ぶものが圧倒的に多く、自然死を変死扱いする風潮があるのが述者には、不満であるというよりも、解せないのである>。それは怠惰な思考習慣からきた病院依存症だ、と……
【これはBLです】『さんかく窓の外側は夜』<BL誌で連載していたのに、コミックスがBLレーベルじゃないことも正直なところ私は不満があったのですが、それもあってこの話はBLではないと思われる方もいるようで、BLっぽい描写がいらないという感想をいただいたりもしました。そういう方には残念ながら、これはBLなんです/BLへの抵抗感を持ちながらBLに近いものを喜ぶ人たちにとっても、BLレーベルでないことは重要だろうし、そのほうが受け入れやすいんだろうな、そういう人にも訴求したかったのかな>とか思いながらも残念だと。
【自分だけじゃないと知ることで何かの力になる】『違国日記』<この作品を描いている私は「知っているよ」と伝えたい気持ちはある/何かに傷ついたり苦しんだりしている人がいて、そんな気持ちを抱えているのは自分だけかもしれないと思ってもそうとも限らないかもしれないし、私も似た気持ちを知っているかもしれない。自分だけが苦しいのかもと思ってしまいそうなときに、その苦しさを身近な人と共有できなかったとしても、同じような気持ちを抱えている人がいると知ると、自分だけじゃないとわかって孤独から楽になるところはあると思う>と――
【センサーとしてのからだ】<思いついたことは、必ずチョットしてみて、している最中とその直後に「気持ちがいい」ならば続けてするし、そうでないなら止めておくことにしてください。「センサーとしてのからだ」で判断した結論が最も正しい/いま心身が喜んでいるか、不快に感じているかで、その養生法が自分に合っているか合っていないか、もっと続けるかこの辺で休むか、を確かめるようにしましょう。「快・不快」という心身の感覚が、永年にわたって無視されたせいで、うまく働かなくなっているのが精神科の病気になる人の大きな特徴です>と。
【消去でなく、可能性を活かす】<脳の機能はバラバラであり繋がってもいるから、一部分が伸びると他の機能も育つので、「発達障害」や「認知症」の人のダメなところを探してそこをどうにかしようとしても、「無い袖を振る」努力で「くたびれ儲け」になるだけ/その人の過去の記録の中から「原因」を探すよりも、活用できる「可能性」を探す方が、役に立ちます。急性期の病気でないときにはことにそう/「症状」とラベルされるものは自然治癒力の歪んだ現れを含んでいることが多いので、「症状」を消す作業は自然治癒力の努力までチャラにする>と。
<日本文化が、キリスト教文明のような父のある社会と比較して、母性原理の社会、子供の自立と成熟を許さない母親支配の社会であるとはよく言われる。だが文化といい、文明というのは、ユング派の祖型のように時間の変容を被らない、非歴史的なものであろうか。日本が、少なくとも明治までは、儒教的な父性原理、天をいただく社会であることは、『夏目漱石』の著者である江藤にはよくわかっていた。そして「成熟」の課題は、江藤にとって「黒船の衝撃」以来の、「西洋」に直面した日本の知識人の歴史的課題だった>。さらに「アメリカの衝撃」――
【妻にとっては夫に与えられる苦しみは、しょせん他人に夫に与えられる苦しみ。夫にとって妻が「他人」にならなくても、妻のほうでは夫はさっさと「他人」になっている】<吉行の「娼婦」もまた、自虐のなかに性的な快楽を招く女として描かれているが、それもしょせん男のご都合主義的な夢にすぎない。男の描いたシナリオにもう共犯的に共演してくれる女がいなくなったとき、女は不気味な他者に変貌する。小島は「他者」になってしまった女に対するとまどいと驚きを、「そこにひとりの女がいるということに圧倒されていた」と率直に描いている>と。
【台風が上陸したら】と、真理子は思う。<この古い家が吹き飛ばされてしまうのではないか、という怖さがある。反面、この何の変化も起こらない、つまらない日常がぶち壊されるかも知れないという自暴自棄に近い爽快感もあった。いやいや、家が吹き飛ばされたら住む家もなく、路頭に迷ってしまう。避難所や仮設住宅での生活は大変そうだ。いや、それどころか、死んでしまうかも知れないじゃないの。私ったら、何バカなことを妄想してるのかしら。結局、このつまらない日常を維持するために、私は自転車を漕いで、いつものスーパーへ行き>、と――。
【園長にまでなった保育園にも、定年後は近寄らない】その理由。<自分が現役の保育士だった時、退職した上司が職場に来るのを鬱陶しいと思っていた/『暇なのかしら。用もないのにちょくちょく来て、先輩風吹かせて昔のやり方を押し付けられても困るのよ』そんな風に思っていた。いや、思っただけでなく、同僚と一緒になって『迷惑だ』と言い募った。今なら、自分が青春を捧げた場所を懐かしむ気持ちは痛いほどわかる。その一方で、若い保育士がOBを煙たく思う気持ちもわかる。だから、退職後は昔の職場に近寄らないようにしていた>、と。うん!
【ただごとでない召命感をバネとして医者となる】中井久夫先生は、『精神科医としての神谷美恵子さんについて――「病人の呼び声」から「一人称病跡学」まで』で、<精神医学界の習慣からすれば「神谷美恵子“先生”」と書くべきである。しかし違和感がそれを妨げる。おそらくその感覚の強度だけこの方はふつうの精神科医ではないのだろう/「小林秀雄」「加藤周一」というようには――これは「呼び捨て」ではなく「言い切り」という形の敬称であるが――「神谷美恵子」でもない。私の中では「神谷美恵子“さん”がもっともおさまりがいい」>と。⇒
<言い切りに出来ないのは、未見の方でありながら、どこかに近しさの感覚を起こさせるものがあるからだ/「先生」という言い方をわざとらしくよそよそしく思わせるのも、このぬくもりのようなもののためだろう。そして、精神医学界の先輩という目で見られないのも、結局、その教養と見識によって広い意味での同時代人と感じさせるものがあるからだろう。/一般の精神科医と区別するものは単に物々しさがないとか教養と見識の卓越とかだけではない。25歳の日に「病人が呼んでいる!」と友人に語って医学校に入る決心をされたと記されている>と。
【お母さんには、祈ることしか出来ひんから】電話で、母に病名を伝え、<それは私が、望んでいることでもあった。私は母に、祈って欲しかった。私は彼女の祈りの強さを信じていた/母に、蜘蛛のことを告げた。祖母が蜘蛛になって噛んだのだと思う、と言うと、母は言葉をなくしていた。この電話がかかってくる前日に、彼女も洗面所で、大きな蜘蛛を見たのだそうだ。そしてその翌日、母はもっと大きな蜘蛛を見ることになる/おばあちゃんが来てくれた、と、母は泣いた。「カナコ、だから大丈夫やで!」そしてすぐにお百度を踏みに行ってくれた>と――
【自分の恐怖を、誰かのものと比較する必要はない。怖いものは、怖いのだ……】<どれだけ生存率が低くても、どれだけ再発率が高くても、恐怖を感じずに生きてゆける人はいる。残念ながら、私はそうではなかった。本当にこれで終わりなのか?今後まだ、恐ろしいことが自分に待っているのではないか?どこかでそう考えている。そしてその思考は、最高潮に幸せな瞬間に浮かびやすい。この幸運が信じられない、だからこそ、それを失うのが怖い。この気持ちは何なのだろう。そう思っていた。でも、何のことはない。それはありきたりの感情だった>と……
【震災によって、家族という繋がりの重要性が見直されたのは確か。一方で、家族以外の繋がりもまた、時に家族と同様の役割を果たすという事実も明らかになった】<血縁こそが最も崇高な結びつきだというものが旧来の考え方でしたが、「人のつながり方に貴賤は無い」という思想も、震災をきっかけとして広がってきたのではないでしょうか。震災後、「絆」という文字が世にはあふれています。この場合は「ほだし」ではなく「きずな」と読むわけですが、「きずな」はただ家族や友人知人の間にのみ、結ばれるものではありません>と。その通りですね……
【ライフラインが使えず人々が助け合って暮らす場は、災害ユートピアのよう】親の家に住んでいる30代独身女性の語り。「震災直後は電気もガスも水道も止まってしまったから、皆で助け合って、工夫して生活していたんですよね。その時は世代も性別も関係なく皆が仲良くなって、不便だったけれど幸せだった。だから電気が通じた時は、『このまま電気が来なければよかったのに』って、思ったんです/震災直後は、ロウソクの一つの炎を見ている皆が同じ立場にいたし、一つになれたんですよね。でも電気が来たら、またバラバラになっちゃった……」と。
【恨みの爆発】『虫の話』(李清俊)……カンヌ国際映画祭で賞を取った『シークレット・サンシャイン』の原作。本書のため斎藤真理子が新訳。子どもが誘拐されたうえに惨殺される。愛する息子の悲惨な死は、母親にとって世界の終わりを意味した。絶望と自虐の末に、復讐の執念に支えられ立ち上がる。その母親に良き隣人は、「全知全能の神様にすがれ」と説くと、悲嘆のどん底の母親は言い放つ。「神様なんて知らないわ、殺人鬼について教えてもくれない神様なんて。愛も摂理もみんな絵空事です。神様より先に私が捕まえるわ」と。ヨブ記を想う――⇒
【恨みと許し】やがて犯人が捕まり、死刑が確定。良き隣人は「神の試練を受け入れ、犯人を許せ」と説く。その説得は粘り強く続けられ、やがて母の心に信仰の芽が出る。地獄のような絶望の末に、“許そうと決心して”死刑囚に会いに行く母親。そこに待っていたのは、“彼女より先に主の許しと救いの恵みを享受する”死刑囚であった。彼は言う。「生き残って苦しんでいるご家族の悲しみを、愛によってやわらげ、慰めてくださいますように」と。読む者の魂を抉ってくる傑作! ドストエフスキーの『作家の日記』に出てくる改悛した死刑囚の話を想起――
【心(脳)が身体を操るのではなく、逆に、身体のほうが心を操る】<身体感覚は、「お腹が空いた」というようなひとつのまとまりではなく、個々の部位がそれぞれに要求を叫ぶのだ。突き上げてくるのだ。つまり、健康なときには、連携がとれているので、身体をひとつのものと感じているが、身体というのは、実はかなりばらばらで、部位ごとの要求を持っているということだ。今、私は指を動かして、この文章を書いているが、指は本当に私の意思によって動いているのか、それとも指が勝手に動いてから、私はそれを自分の意思だと錯覚しているのか>と。
【身体には全然目を向けない作品がある一方、身体について見事に描いている作品もある】<夏目漱石の『こころ』は、タイトルこそ心で、心についてもちろん書いてあるが、実は身体についても深く書いてある。そういう身体についてもちゃんと描いてある作品を、私は「身体で読む文学」と呼びたいと思うのだ。心について深く描いてある作品を読んで、心が震えるように、身体について深く描いてある作品は、身体で読むことができる。つまり、身体感覚で共感できるのだ。そういう文学の名作を集めてみたいと思った。それがこのアンソロジー、本書だ>と。
【鷗外の心に終生深く漂いながら、日記に書かなかった3つ】「あとがき」より。①少年期に津和野で見た、藩によるキリシタンの迫害。②ドイツ留学で知り合い、結婚まで誓ったエリーゼ。③大逆事件への関与。<これらのことについては、山崎国紀氏の『森鷗外〈恨に生きる〉』に、何度も首肯させられた。特に、大逆事件における国家の不条理な振る舞いが、鷗外にキリシタン迫害の記憶を蘇らせたであろうこと、エリーゼを裏切った悔恨を生涯抱き続けたに違いないという指摘は、同じ石見人として鷗外に向き合ってこられた、氏ならでは考察だと思う>と。
【まともな理屈では、幸徳たちは救えない】『三田文学』編集長の永井荷風は、鷗外が『三田文学』に発表した『食堂』を、「先生、これは山縣公に向けて放った爆裂弾でしょう?/あと一押しです。山縣公は、もう相当に脅えていると思いますよ。陸軍軍医総監として会う森林太郎は、どこまでも従順で微笑みを絶やさない。その同じ人間が森鷗外になったとたん、自分だけを狙い撃ちするかのように密かに銃口を向けてくる。幸徳を殺すな、思想を殺すなと見えない弾丸(たま)を撃ち込んでくるのですから」と。が、裁判で心が折れた荷風は、戯作者に転向――
【クライエントの3分の2は家族問題を抱える】<親との関係が苦しいのは「悩み」ではなく、「つらさ」とも違う。とにかく「苦しい」のである。よく「カウンセリングってお悩み相談でしょ」と言われるが、そのたびに強い抵抗感をおぼえて反論したくなってしまう。悩みとは、心の中で起きることを指している。「悩」という字に“忄”が付いているのもそのせいだろう/苦しいというのはもっと全体的(身体反応も含む)なものだ。中で母との関係において生じる事柄は多岐にわたり、その点では他に類を見ない。だから「苦しい」としか表現できない>と。
【少子化対策は女性対策を】<女性が生きていくうえでの障壁をなくすことに対して冷酷ともいえる無策ぶりを発揮し、状況を放置しつつ、一方で子どもの数を増やしたいために、婚活支援をして未婚男性を減らすための目先の対策に予算を使う。物価高で、給与は上がらず、円安は進行しているのに、結婚して子どもを産むなんて無理と思う女性は多いだろう。様々な問題をすべて家族というブラックボックスに放り込むことで、政策的には何も進展させてこなかった。そのつけが出生率の低下に表れている>。それは「女性たちの復讐」ではないか、と。同感だ!
【エースの解放は、注意深く熟考された性的倫理と恋愛的倫理に賛成しながら、性的なフツーさと恋愛的なフツーさを退ける際に達成させるもの】<目標はひとえに、みんなにとっての真の性的かつ恋愛的自由という目標だ。エースたちに歓迎的な社会は、レイプ文化と決して相容れないだろう。女性嫌悪、人種差別、健常主義、同性愛嫌悪、そしてトランス嫌悪とも。恋愛と友情についての現行のヒエラルキーとも。同意についての契約者的な概念とも。それは選択を尊重し、私たちの生活のあらゆるところに見つかりうる快楽に光を当てる社会だ>と。ええ。
【エースもまた一枚岩ではない。より流動的で包括的な定義が、エースとアロー(性的惹かれを経験する人)の分割線をぼやかし、自身をエースだと考えるようになれば】<今日のエースは、いかにセックスをするかにかかずらっていないが、反セックスだというわけでもない。私たちは、人々にセックスするのを止めろとも、それを楽しむのに罪悪感を覚えろとも請うていない。私たちは、私たち全員が自身の性について信じていることを疑うよう請うているだけであって、そうすることで、世界がみんなにとってよりよい、より自由な場になると約束する>と――
【パートナーの呼称】80年代に日本で英国音楽を聴いていた若者にとってゴッドであるピーター・バラカンのラジオ番組でオンライン越しに会話。<意外な共通点があることがわかった。それは言葉についてとても敏感だということだ。これは海外生活が長い人間の特有な性質なのかもしれない/のっけからわたしが書く日本語がおかしいことを指摘してこられた。「そもそも『連合い』って、日本語として変ですよね。普通だったら、『れ』が入るのに。ふっと目に入った時、『連合』みたいに見える」/このツッコミにわたしはただならぬ感動を覚えた>と。⇒
【連帯より連合】<強固に繋がって「帯」になるより、時々「合う」ぐらいの繋がりがいい。必要な時には一緒に物事をするけど、要らない時にはいなくてもいい関係のほうが楽だと思うのだ。英語ではパートナーを指す言葉に「my other half」という表現がある。「私の半身」なんて、これもまた、一心同体、みたいな連帯系の言葉だ。「わたしたちは二人で一人」というような感覚は、恋に恋する年頃なら夢見るかもしれないが、ある程度の人生経験を積めば、そんな感覚は幻想だし、それ以上に、単なる幻想でよかったと思うようになる>と――
<私の場合は、あれもこれもやりかけて散らかる、収拾がつかなくなるのと、常にいろんなことを並行してやっているのでたぶん脳がめっちゃ疲れる。ポッドキャスト聞きながら朝ごはん食べながらツイッター見て、朝からたぶんすごく脳を使ってしまうのだが、やっていることの一つ一つはそれほど負担があるようには思えないので、たいしたことはやってないのになんかすごい疲れてる状況になっているのやなー、と理解はしたが、朝ごはんを食べるだけをやる、というのは落ち着かなくて難しい。/静かだと不安なことばかりが思い浮かんでしまう>と。うん。
【私と友達】<コミュニケーションが苦手で、という話をすると、小説では友達がたくさん出てきて人と会話する場面が多いので、意外、そんなことないでしょう、と言われたりする。/小説に友人関係をよく書くのは、友人関係が自分にとってとても重要なもので、10代の時に危機的な状況に陥ったのは友人関係のがきっかけだったが、それよりも深刻に家族関係で苦しんでいた私を助けてくれたのは紛れもなく友人たちだった。友達というのはどこからどこまでかよく判らないからいいと思っている。恋愛や結婚のように決まった相手でもなく>と。うんうん。
ご訪問していただき
深く感謝しております。🙏
読友さんたちのレビューなどを読むことで、
多くの良き本に出逢え、有り難く思っています。
【お気に入りについて】
悠々自適のシニアライフになる筈が、根が貧乏症なためか、
相変わらずの忙しない日々で、やれやれです。
で、直近の課題は、古典の精読。
その時間確保で頭を悩ませているのが「お気に入り」への対処。
「承認欲求」と「数字の魔術」に未だ囚われていますので、
「お気に入り登録」して頂けると正直嬉しく、こちらもお返し登録したい。が、(当方のキャパ以上に)「お気に入り」の方が増えたことで、
レビューを読むことに時間がかかりすぎる現状が、悩みの種に。
そこで、当方が「お気に入り」登録する方は、
共読本が多くて、交流のある方のみとします。
交流の基準は、ナイスで判断するしかないと考えているので、
共読本以外の本のレビューを読んでいる(判断はナイス)方とします。
ただ、あくまでこれも原則です。
どうしても例外事例が出てくるのが困るところで……
何卒、ご理解を。m(__)m
【引用について】
気に入った文章を脳裏に刻むため、
引用多いです。
そして、その引用は、
コメント欄まで侵略し、
もう、ね……
引用文は、< >内に。
略す場合は、/ を使用。
極力、原文そのままを目指すが、
255字内に、収めきれないため、
ひらがなを漢字に変換する
などの小細工をしてしまう。
その度、無念の思いを――
【語尾が曖昧です】
過度に自信のないタイプです。
それが文章にでるのでしょうね……
末尾が「……」となるのが多いです。
どうか、お目こぼしを――
これからも、本や読み人との、
素敵なご縁を願って――
ネギっ子gen 拝
※2023.11.8 改定
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【何もしなかった。電話ひとつ……】<母が病に罹ったと知ったときから憤っていた。焦っていた。母が、私を頼らないことに。何て、私は身勝手なのだろう。母の通夜葬儀は、実母ではなく他人のそれにかかわっているような気がして、情けなかった。たくさんのひとたちの嘆き。人となりを惜しむ会話。母を置き捨てた私には、語れぬ母。きっと父も、同じだった。家族と括られるはずの私達だけ、取り残されていた。「仕方、ないよね」愛していなかったわけじゃない。ただ、母に対して傲慢だっただけだ>と……。人生って、こんな苦い後悔の繰り返しか……
【彼の何もかもが、わたしのストレス】「4章 木槿は甘い」:不妊症治療の末に子どもを諦めた夫婦。妻の夫への思い。<小さなくしゃみ、咀嚼音。寝息に、寝言。トイレの後の便座の温もりと臭い。かつては何てことなかった、あるいは愛おしさすら感じたすべてが、わたしの心をいちいち苛立たせた>と……。わたしは子どもの頃…自身の未来として、結婚したら、この“夫”のように配偶者から思われ厭われるんだろうなぁーって想定してた……「結婚は人生の墓場」とも……。60年後、老夫婦で毎日語らいながら散歩する日がくる未来なんて、思いも……