キーボード上の文字の配置を表す記号となる。この機能を通じてAZERTという文字列は、記号として定立される。文法書における動詞の活用表、植物種の分類表、会計におけるバランスシートなどにもあてはまる。言表の機能をつうじて記号はそれとしてはじめて存在することができる。 言表の機能としてはレファランス性と言表の主体の位置を定めるというものがある。つまり、言表は記号をつうじてさまざまな関係付けを行う。「記号は、それ固有の存在において力をもつ。この力はけっして権力と無関係なものではないだろう」
「リバタリアニズムがまさに「思想」の外部にある。他者も考えないし、享楽の次元も考えない。所有権を基盤にして、あとは市場に任せていればなんとかなるんじゃないか、的な乱暴な発想は、近代思想の伝統から見れば粗雑きわまりない。けれど、その乱暴な思想が、情報技術によって実装されて現実の社会を動かしていく。これこそが、ポストモダンというか、二一世紀のリアリティなんだと思うんです」(277)や工学的な「リバタリアンの自由」ではなく「リベラルな理念」の人文的な議論を復活させる必要がある(171)というのが東氏の問題意識。
安藤馨批判>「すでにある世界(四字傍点)の内部にいて人格としての整合性(integrity)に対する信憑を持っている我々一人一人の観点から見た場合、人格なき世界(五字傍点)は私(傍点)のいない世界、私(傍点)はついに感覚され得ない世界である。いわばそれは、夢の中の私にとっての夢の外の世界なのだ。したがって、人格ある世界と人格なき世界のどちらが優れているかという問いは、我々にとっては意味をなさないものである。」
先日の朝日新聞時評の中で安藤氏が現代日本政治における「連座制」を批判していたが、大屋氏によると『統治と功利』の中(279頁)で「家父長的な連座制と同様に、過去の私に現在の私を連座させる『「私」の連座制』」を批判しているらしい。後で確認してみる。
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ドゥルーズ『消尽について』も連想。疲労と消尽。燃え尽き症候群、バーンアウトみたいなものか。