形式:文庫
出版社:講談社
を引き合いに出し叙述されている箇所は、ある程度咀嚼して理解できました(僕はデカルトの『方法序説』と、キルケゴールの『死に至る病』の前半は読んでいたので、そのことが理解の助けになりました)。『探究Ⅰ』を読んで、僕はウィトゲンシュタインの作品を読みたくなりました。
著者は自身の「真意」が伝えられることを期待していないという。そんなものはありえないのだから、と。この本は彼の頭の中をほんの少し書き出しただけのモノローグである。『福音書において印象的なのは、「教える」者の優位性ではなく、その無力さである』と彼はいう。貧しい者の暮らしも不条理な死に怯える罪なき者の命も一切誰も救いはしない、この純粋なる知性をただ美しいと思う。
その驚きを共有している固有名が次々評価されていくが、特にキルケゴールや(バフチンの読解とは異なる)ドストエフスキーへの評価が印象に残りそれらを読みたいと思えた。一方で、デリダやドゥルーズへの評価は、同時代思想ということもあるが性急に思う(前者はほとんど同じ問題だと言いながら「先輩ヅラ」しているような気もするし、後者はまともに検討されてもいないと思う)。東のデリダ論、千葉のドゥルーズ論が柄谷への応答であったという文脈からもそれらを再読したい。
また、宮﨑裕助も自身の博論で『探究』を意識していたとTwitterで言っていて読みたい。
トゲンシュタインを曲解しており、本書はむしろ彼の洞察を消しているように読めます。創造性を極限まで高めると、絶対的な他者(それを神と言ってもよい)との非対称なコミュニケーションに失敗することによって成功するというようなことを延々と語っています。著者が思いついたままバフチンだ、ヘーゲルだと無茶苦茶な文脈で哲学者を召喚しているのも、交換の失敗をいわばパフォーマティヴに行っているだけで、実は躓き、半ばスルーしても何ら問題ないのだといってもよい。なぜなら、失敗する不可能性によってこそ創造性の極限に到達するからです。
後半は文字だけ読んで文章は読んでなかった気がする。2はまだ初めの方しか読んでないけれどカナーリ面白い
2持ってないから明日にでも買いに行くわ
たしかに数え終われる無限=実無限って概念は、なんか変だよな。。 http://park20.wakwak.com/~ichikawa-clinic/contents.htm
数学者は数学を「発見」するのか、それとも「発明」するのか?→ 当然、後者。 数学の referent が、人間の脳の構造なのだとしたら、それが「世界」をこんなにもうまく説明するのはなぜなのか? →「世界」もまた人間の脳によって構成されてるから、、、というのが養老先生の回答ですね。。
「深淵と飛躍」についてウィトゲンシュタインにおいて意味する「哲学的(合理的)には不可能であるにもかかわらず、日常的に(実際的に)可能であるという驚くべき事実性」(193頁)はドストエフスキーにおけるポリフォニックで非ユークリッドな世界に結び付いていく。学習が、柳田国男の考える記憶ではなく「まねぶ」(154頁) であることが、変容という補助線を用いた創造を成立させることができるのであれば、飛躍に結び付くのかもしれない。。
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