2024年9月の読書メーター 読んだ本の数:24冊 読んだページ数:7781ページ ナイス数:481ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/1299022/summary/monthly/2024/9
ヒポクラテスからガレノスへの四体液説は聞いたことがあったが、断食とも関係していたというのは知らなかった。「今日は断食日だからワインと牡蠣で我慢しとこ…」みたいな司祭を批判する当時の記事はちょっと面白い。テンペストについて一章設けられているが、プロスペローたちの物語をタラ漁とサック酒に沿って解釈するのも興味深い。この時代のヨーロッパには全然詳しくなかったがカナダのニューファンドランド島を舞台にフランスと領土を奪い合った商人デイヴィッド・カークの物語にも興味が出てきた。
くねくねやコトリバコもリアルタイムでは「この話に似たこういう伝説がある」「こういう妖怪がいる」「こういう呪術がある」といった民俗学的な知識が人々から提供される流れがあったそうだが、一部にはまったく出典が確認できないものがほとんどだったという。これも断片的な怪談に民俗学的だったり歴史的(に見える)な情報を付与して物語を展開していく逆行オステンションの一例と言える。鮫島事件など皆で物語を構築していく“ネタ”文化が日本ネット怪談には見られる。
本書の問題意識…社会から否定され説明論理としての意味も失われた犬神筋は遠からず消滅するだろうが、その時にはまた別の差別が生まれることになる。その時のためにかつてあった差別のメカニズムを研究することには意味がある…は共感できるところ。特に憑き物筋はホラー作品やミステリで(いわゆる因習村ものジャンルなどで)遠い世界の他人事として割りかし無批判に使われている傾向がある。そうしたものを楽しむにしろ、因習は生活の中に現れうる…という視点を持つ想像力は持ちたい。そのために民俗学や文化人類学の考え方は有用だと感じる。
澤村伊智が『ジャパン・ホラーの現在地』で言及していた昭和30年代に因習村取り上げられがち問題について文化人類学/民俗学的知見からの詳しい話も読める。高知において戦前は「近代国家たるもの因習断つべし」という風潮によってある程度下火になっていた犬神筋言説が戦後の混乱期にまた活性化しているという。本書で取り上げているのは自由恋愛の風潮。家同士の仲裁が入らない自由恋愛からいざ結婚となった時に調べてみると犬神筋で…というトラブルがあったそう。一方で家や土地に縛られない自由結婚が犬神筋を弱体化させた側面もあるという。
地神経関連に興味があるのだが、『簠簋内伝』やいざなぎ流のテキストとの関係性が少なからず見えてくるのも興味深い。盤牛王が堅牢地神の垂迹のひとつであり、彼の末子である五郎王子=黄帝黄龍が様々な名前を取ること、五郎王子と他の王子たちの諍いの原因が五郎王子が娘だったことに起因するテキストが慶長十七年版に存在するなどと言った話はどう受け止めればいいのか分からないのだが、これも一筋縄ではいかない複雑さを湛えているというのは間違いない。
盤牛王=盤古王がインドの原人プルシャのイメージを強く受け継いでいるのは間違いない。プルシャの耳からは方角が生まれ、盤牛王の王子たちが四季と東西南北の支配者となったことは対応があると言えるだろう。盤牛王は梵天(フラフマー)が本地というテキストもあるようでインドの神々が日本まで影響を及ぼしている。祭式や祭文、都状によって神々を縛る陰陽師はバラモンの在り方と近いというのも興味がそそられる。
『ピカルディの薔薇』は『虚無への供物』のオマージュ集に掲載した作品が初出とのこと。確かに五色の薔薇、洞爺丸の沈没の話が出てきて妙に『虚無』要素があるな……と思ったらそういうことか。よく見たら奈々緋紗緒の名前も出てるし。奈々村編集の縁者設定だったらしい。奈々村編集が出てくる『奈々村女史の犯罪』はちくま文庫版の『蘆屋家』の方に収録されているみたいなので読むならそちらを集めるしかないか。
やはり難しい部分もあったものの、輪廻説の部分などではアグニによって死後の人々が月に行く流れ、二道による輪廻という五火二道説について書いてあるところもありこちらは興味が惹きつけられた。五火二道は古ウパニシャッド時代に確認できる(プリハット・アーラニヤカ)というので、前800年当たりで輪廻説が固まった、ということらしい。リグ・ヴェーダの時代はソーマやアムリタによって不死を求めていたということは輪廻説はインドに最初からあったもの、というわけでもないのか。このあたりはもっと掘り下げたい。
原人プルシャはティアマトやユミル、盤古と同じ死体化生神話。身体から神やカーストが生まれたというあたりイザナギとの関係性も感じられる。しかしリグ・ヴェーダにおいてプルシャは祭式の犠牲獣として取り扱われているという。祭式重視のヴェーダの宗教らしい特質。神を犠牲にする、という観点はハイヌウェレ型にも近いような。あとはバラモン教とヒンドゥー教の違いと言うか関係性に触れているのも知りたかったところなので良かった。バラモンはヒンドゥー教の古層、そしてヒンドゥー教はインドの宗教をヨーロッパが表すために作った言葉。
近年の作品『シックスハック』と『ニッポンおもひで探訪』は絶対に見なければ。気になっているのだが積み状態。近年の作品だがまったく知らなかった『viewers:1』『city live』は是非見てみたい。街が交尾するってなんだよ…全然想像が付かん。巻末の年表や「この番組はフィクションであり〜」の注釈テロップに注目したコラムなど愛と熱意に溢れた一冊でもあった。
「コウタの一人称で進んでるのに時折コウタの名前が三人称で出てくる…これはもう一人のクルーがいる信頼できない語り手パターン!」と勝手に疑っていたがそんなことはなかった!
『消えない花の声』と『たゆたう海の月』のブリッジが印象的で好き。『消えない花の声』の終わりと『たゆたう海の月』の始まりが同じ場所、同じシチュエーションで繋がっているのにまったく別の条件で話が始まっているのがワクワクさせられる。
人狼のレイヤーにも二種類あり、呪いや共同体の呪いを肩代わりするなど止むを得ず周縁に追いやられる一種の人柱的な人狼、悪魔と契約することで意図的に人狼となった邪悪な存在があり、それによって裁判の結果も異なってくる。また裁判の記録からは裁判官や人々の期待する人狼像にそって自白がなされているのではという指摘も面白い。「子供を殺して生き血を啜る」「狼が人間の皮を被って忍び込んでいる」などの観念はレプティリアンやDSなど近年のアメリカ陰謀論との共通点が見られる気がする。
この作品を魅力的にしているのは数々の注釈。特に最序盤、ダリア・ミッチェルの日記の中で言及される人々が尽く「…後に上昇によって死亡した」と付記されるのがただならぬ雰囲気感じさせてくる。
孤独を感じる人間は人間以外の存在…モノや動物など…を擬人化しやすいという社会神経学者ジョン・カシオポの実験が紹介されていたが凄く興味を惹かれる。人間関係を絶って過酷な修行を行う宗教者が神を見る、盲人など社会的な周縁に置かれた存在が民間信仰を担う、あるいは天理教の中山みきのようにモラハラ夫と姑によって孤独に追いやられた人間が神を降ろすという例と何か関係が見出せるような気がする。
映画の方は見てないのだが、平沢進の『パレード』や「オセアニアじゃ常識なんだよ!」のシーンはなんとなく知ってるくらい。夢の支離滅裂さを鮮やかに描くにあたって小説では視点を、アニメでは言葉の密度で表現している感じか。映画もいずれみたい。
人文・民俗学・ホラー小説などを中心に読んでますが時々全然違うところに飛んだりもします。早い話が乱読屋さんです。
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