
手塚富雄著「ヘルダーリン」を読むなかで、私は、ヘルダーリンを「遠景の詩人」「三和音の三度音程の詩人」という私なりの手がかりを見出した。この本の語りかける力は強い。それは、手塚氏の無限の探求心が充溢した、本そのものが放つ啓示であったろう。またそれまでのドイツ文学者たちの心血をも自然と包摂していたからであろう。高橋氏はそのエッセンスを的確にとらえ、師手塚富雄の主著へ尊敬と愛情に満ちた評でこの文章を結んでいる。
「たしかにこれは氏の意志がなしとげた大業である。これから後、折に触れてはこれを繙いては胸の結ほれをほどき、詩心の養いを与えられるのは、何という浄福だろうか。」私はドイツ文学を学んだ端くれの人間として、これからも高橋英夫氏の本を繙いていくだろう。無比の清らかな幸福感に満ちた憧れを求めつづけるように。
*訂正:「トリアーデ」の例で「パトモス」の1詩節の行を18行と記載いたしましたが、15行の誤りです。3の倍数ではありますが誤情報を記載いたしましたことお詫び申し上げます。
ヨンデルさん、こんにちは。いつもありがとうございます。 この本は何度も読んでいる本なのですが、部分部分を用途に合わせて参考にするのが主で 通しで読むのは久しぶりです。 ところで芸術家肌は、ヨンデルさんの方ではないでしょうか。昔描いたとのことで掲載される絵、とても素敵ですよ。 私は何かを作り出す能力は持ち合わせていないので、 そうした創作の力をお持ちであることを本当に素晴らしいと思います。
マーラーの写真を見ながら読んでみて欲しい。しかしそれだけでなく、ヴィスコンティが映画で第四楽章をテーマに使ったからでもなく、作品そのものの構造から私は第五交響曲全体との類似性を感じている。)、など気になる考察点は他にも沢山ある。 しかしながら、このプラーテンの人生と詩との関連は極めて深い。そしてそれを知ることは「ヴェニスに死す」の深層にある詩的領域に触れる重要な鍵のひとつである。
なおこの説は研究者の間では広く周知の事実です。私もいくつかの論文を読んでいます。 その上で今回の読書で、自分自身で読んだプラーテンの詩より、「ヴェニスに死す」との関連を探ってみました。
「当該の音楽作品を絵なり写真なりで解説する方法もあるが、これも間違っているとわたしは思う。なぜというに、聴衆はこれによって、本来聴くべきもの、聴こうと思うものから気をそらされるからである。そればかりか、音楽では『ジュピター交響曲』とか『運命交響曲』というタイトルも間違いだとわたしは思う。それは絶対音楽にあっては聴衆自身が自分なりのイメージをもつべきだという立場に立つからである。
わたしの考えでは、作曲家自身、この作品はこうして体験すべきだという規則は、素朴な聴き手にも、教養ある聴き手にも与えてはならないし、与えることもできない。」 カール・ベームの芸術への態度を最もよく表している。そして芸術の扉は、解説や理解ではなく自分自身の主体的体験でこそ開く、と告げる巨匠の厳しい教えである。
最近、昔々40年前、まだ20代の頃読んだり、読みたかったけど読破出来なかった本を中心に読んでいます。
瞬発力や柔軟さは、今と比べるべくもなくあったけど、人生も愛も社会も知らない時代に読んだり読むのを欲した本を、曲がりなりにもそれらの苦しみも含め生きなければならなかった今までの経験でどう読めるか、そんな気持ちで読んでます。
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マーラーの写真を見ながら読んでみて欲しい。しかしそれだけでなく、ヴィスコンティが映画で第四楽章をテーマに使ったからでもなく、作品そのものの構造から私は第五交響曲全体との類似性を感じている。)、など気になる考察点は他にも沢山ある。 しかしながら、このプラーテンの人生と詩との関連は極めて深い。そしてそれを知ることは「ヴェニスに死す」の深層にある詩的領域に触れる重要な鍵のひとつである。
なおこの説は研究者の間では広く周知の事実です。私もいくつかの論文を読んでいます。 その上で今回の読書で、自分自身で読んだプラーテンの詩より、「ヴェニスに死す」との関連を探ってみました。