ただ、伯父のギャヴィン・スティーブンズが唱える奴隷制度の解決、北部との戦争の敗北という形で押し付けられた解放ではなく、南部の贖罪から生まれる解放にこそ真の融和が生まれ、それがひいては合衆国の自由となるとという主旨の主張や、ルーカスを救おうかどうか逡巡し、半ば成り行きで救う形になったのを、同じくギャヴィン伯父が少年に言うセリフ「誇らしく思うのはかまわない、威張ったってかまやせん。ただやめちまっちゃだめだ」というところは、かなり共感は覚える。
確かに1930年代に書かれた重量級の作品群に比べると物足りないところはあるが、例え翻訳を通してとはいえ、こういうストレートな文体も駆使でき、わかりやすい小説も書け、鑑賞に耐える作品を生み出せることは、それはそれですごいと思う。なお、ギャヴィン・スティーブンスは、この後の長編でも登場する後期フォークナーの重要人物であり、この小説集は彼の来歴を語る意味でも興味深い作品。
なお本の感想ではありませんが、今年10月からの新参者でありながら、私の拙い感想にいいねを下さったり、お気に入りに入れていただいた方々、本当にありがとうございました。皆様のお読みになった本、読んだものは自分と違う視点でとても参考になり、読んでいない本では、こういう本もあるのかと改めて驚愕しておりました。皆様が良いお年を迎えられますこと祈願いたします。
また、アメリカ南部の奴隷制度の解決についても独特の倫理観で語られる(特に10章)、ある意味フォークナーの小説の中でも解釈が難しい小説と思う。フォークナーの中では比較的短い小説だが読了までかなりかかってしまった。今まで、この小説だけ一行も読んだことがなかった小説で、まだ十分読み取れたとは言えない。
ただ、伯父のギャヴィン・スティーブンズが唱える奴隷制度の解決、北部との戦争の敗北という形で押し付けられた解放ではなく、南部の贖罪から生まれる解放にこそ真の融和が生まれ、それがひいては合衆国の自由となるとという主旨の主張や、ルーカスを救おうかどうか逡巡し、半ば成り行きで救う形になったのを、同じくギャヴィン伯父が少年に言うセリフ「誇らしく思うのはかまわない、威張ったってかまやせん。ただやめちまっちゃだめだ」というところは、かなり共感は覚える。
なお、三番目の「黒衣の道化師」だけ、とても陰惨な話で異色だが、マッキャスリン一族の黒人に対する宥和的な姿勢は特異的な物で、黒人と白人は分かり合えるはずがなく、ちょっとしたきっかけで白人の暴力による黒人への制裁が起こる現実の状況が、この物語全体の背景にあることを提示しているものと解釈している。そして喜劇調で始まったこの小説も、感動的なアイクの決断も、最後には人間としての生の残酷さの影の中で物語りは終焉する。
一つ一つを独立して読んでも鑑賞に耐える作品群だが、長編として読んでこそ、有機的な繋がりが感じられ、それらの素晴らしさが生きる。他にももっと書きたいことが。この小説、私は、フォークナーの作品の中で一番好き、でもここで筆を置こう。でも最後に、最初のページのある人物への献辞。これだけでも心を打つ。
明らかにシンメトリカルな構成を意図しているのも伺える。 フレム・スノープスという一族でも切れ者の主要人物が登場するが、登場する割合は極めて少ないし、会話も内面もほとんど描かれない。けれどどこかで暗躍している雰囲気があり、得体のしれなさ抜け目のなさは、あえて「描かないこと」で描いている様に思う。ただ、今回この「村」を読んで改めて思ったのは、この長編の主人公をフレムと想定して読むのは違う様に思う。解説で、作家の三枝和子氏が書かれている様に、この小説は、「村」、フォークナーが自ら書いた地図によれば、
ヨクナパトゥーファ群南東の土地、フレンチマンズベンドそのものが主人公であり、その視点で読むとこの小説の本当の面白さに浸れるということ。この小説の語り口が、フォークロアを思わせるのもその土地そのものを語ろうとしたそこにあるのではないかと思った。
初めて読んだ時から変わらず、いや歳を重ねたからこそより切実に、ハリーのあの最後の独白が自分の胸に響く。「野生の棕櫚」の悲劇に、「オールドマン」が対旋律として喜劇を奏でるが、どちらにも通奏低音として響いているのは、不条理の運命と、それを耐えしのんで生きなければならない人間の姿、そしてそれをかろうじて支える「記憶」。
8月に「ポータブルフォークナー」を読んで、フォークナーの作品を最初から順番に読もうと読書計画を立てた手前、7月に冨山房の全集版で読んだし、「オールドマン」も「ポータブルフォークナー」で読んだので、飛ばして、次の「村」を読もうかなとも思ったのだが、順番に読むとまた他の作品との関連なども浮き彫りになり、やはり飛ばさずに読んでよかった。「八月の光」で明確に出てきた、「耐え忍んで生きる」というフォークナーの大きな主題が、全面的に展開されたのが「野生の棕櫚」だとつくづく思う。
次第にお互いの心情が募って行く(といっても比較的早い時期にそういう関係は結んでいるようだが)。一文一文噛み締めながら、和歌のやりとりの意味を考えながら感じながら読んでくると、男女の心の動きが痛いほど伝わってきて、とても1000年前とは思えない。中盤の「手枕の袖」のやり取りで女が最後に織り込んで返す歌を読んで不覚にも涙してしまった。多分こういうのは高校くらいの自分では理解出来なくて当然だったろう。
この新潮日本古典文学集成は、注釈が豊富で、なおかつ地の文にもわかりにくい箇所には現代語訳がルビのように振られているので、大変読みやすい。変な思い込みで平安の文学を敬遠してたけど、帰ってこれから読む楽しみができたかも。
近代の著名な詩人を短い文章で論じたもの。この内賢治と中也は、それぞれ四つの章を重ねており、最も長い。特に賢治の心象風景が織りなす多声音楽という前々から私が感じていたこととほとんど同じことを書かれているのに出会い、なんとも言えない感慨に浸っている。中也に関しては、私の感じ方よりももっともっと深淵で核心の音楽を引き出していて、さすがと思う。なお、このご本の中でも感動的なのは、高村光太郎を論じた三篇。素晴らしい!高橋氏の批評の言葉からも確かに音楽が聞こえる!
ナンセンス詩、音声詩、カリグラフィーなど実験的なものもあるが、意外とほろりとくる詩も多い。なんと言っても種村季弘先生の巻末の解説が、いやこれ単なる解説にとどまらず当時の言語批判の傾向まで射程に入れた優れたエッセーになっていると思う。クリスチャン・モルゲンシュテルンは、ドイツ詩のアンソロジーなどで幾つかは読んだことはあるが、まとまった詩集は初めて。リルケやホフマンスタールと同時代の詩人だが、全然作風が異なって興味深い。
二本の酒壜 二本の酒壜がベンチにいる/ 片方はデブ、片方はヤセ/ 二人ともお互い結婚したい/ だけど誰に媒酌を頼めばいいのかな? 二つの片目で二人とも/ 青空仰いで悩んでる……/ けれど誰も天から降りてきて/ 二人を結んでくれはしない
差別の問題、憎しみによる暴力の連鎖とその否定などが10代から20代にかけてのベイヤードの清々しい目で捉えられていて、フォークナーの主題が余すことなく展開されている。フォークナー入門には最適な長編かと思う。 同じ年同じ月に生まれ同じ乳を飲んで育った、サートリス家の跡取りベイヤードと黒人奴隷のリンゴー。物語の初めは、対等の幼馴染として共に協力し合い活躍する姿が描かれ痛快である。けれど二人が成長し最後の「美女桜の香り」では、ベイヤードがリンゴーの主として振る舞いリンゴーも立場をわきまえて行動する姿が描かれる。
これがその当時の南部の事実であり、露骨な差別を描くよりも、むしろもっと哀しく胸が痛くなる。「美女桜の香り」は、それだけ読んでも十分鑑賞に耐える短編だが、長編「征服されざる人々」の最終章として読むと、青年となったベイヤードが今までの経験を通してなぜあのような選択したかがより深く感じられる。こんな素晴らしい作品が入手しがたい状態で、尚且つ1975年のこの翻訳以降新訳が出ていないのが残念だ。
2024年10月に参加したばかりですが、よろしくお願い申し上げます。
ここしばらくは、学生時代好きだったフォークナーを読み直しています。
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また、アメリカ南部の奴隷制度の解決についても独特の倫理観で語られる(特に10章)、ある意味フォークナーの小説の中でも解釈が難しい小説と思う。フォークナーの中では比較的短い小説だが読了までかなりかかってしまった。今まで、この小説だけ一行も読んだことがなかった小説で、まだ十分読み取れたとは言えない。