この句の初出年が気になります.足のない理由をわざわざ考えたのは,足のある幽霊を知っていて,最近の幽霊は足がないそうだが・・・なんて思ったのかも・・・??? 足のない幽霊画の初出は1673年,一般的になったのはおっしゃる通り応挙以降だという話を以前読んだことがありますが,さて,この川柳は何時頃?
→ 仏師が邪鬼で試みたに違いない(pp.33--34).面白い指摘で,そうかもしれないが,でも,史料に基づく論証は難しそう.3) いわゆる「宗教」を怖いと思うのは,その団体感(p.120).そうなんだよね.お釈迦様も法然上人も,“群れるな”っていっているはずなのに,と私も愚痴りたい(^^;).▼少し前に読メで紹介していただいた本.ありがとうございました.
→「分別」は大切,「無分別」ではいけない.分別とは,物事を秤にかけて選り分けることで,生きていくのに必要(選挙も近い.正しい分別をしなきゃ).しかしその反面,苦しみをも生む.“あれがいい,これは嫌いだ”といがみ合う.さらに,自分自身が,秤で量られ選り分けられる苦しみ.仏の智慧は,そんな分別をしない,すべてを包み込む「無分別智」だ・・・.▼仏さんの話聞いて,キリスト教の本を思い出す無節操・・・.いや,ここは無分別と言っておこう(^^;).
→【余談】中井久夫『アリアドネからの糸』(みすず, 1977), 125頁以下から要旨: 記憶には,一般記憶の他に「エピソード記憶」,つまり,その人限りの個人的記憶がある.一般記憶が衰退しても,エピソード記憶の骨格が保持されている限り人格は保たれる.逆も然り.老人が思い出を語ってやまないのは,エピソード記憶を再強化して「人格の煤払い」を行っているのだろう.転居でぼけるのは,エピソード記憶の索引となるものを失うから・・・.
→ 疾風怒濤の連休が終わって,ヤレヤレ.この病院は,広くて明るい待合室に本がたくさん置いてあって,待っている間,久しぶりにゆったりした時間を過ごしました.この本に癒されたような気になったのは,やっぱり疲れていたのかも.いや,辛いことがあったわけじゃありませんけどね.ただ,ただ,気忙しかった(^^;).
→ ちょっと強引かもしれない.でも,故郷を追われた子の未来をそう言って言祝ぎたい.さぁ,ここに新しい世界,君たちの世界が始まる.それぞれの故郷の土から生えた木々と共に・・・.【連想】男の子が手近なものを鞄に詰め込む場面で,『ラピュタ』の歌,「君をのせて」を連想した.「さぁ,出かけよう.一切れのパン,ナイフ,ランプを鞄に詰め込んで・・・地球はまわる.君をのせて.いつか出会う・・・」.そしてまた,“故郷の土”で,「広くてすてきな宇宙じゃないか」(V.アンダール)を.
→ 今読んでいる小説のこの作品名がでていた.そういえば,「ビブリア古書堂」シリーズにも出てきていたような・・・(こんなことは覚えている.昨日のことは忘れているのに^^;).「ビブリア」の方は蔵に押し込んであって見に行くのが億劫だけど,TV番組の方は録画がハードディスクに入っている.そちらを探したら,第2話に早々と出てきた.上の「 」内の評は,その番組で語られる評.青空文庫にあったので,そちらで読みました.物語そのものの感想を記さない理由は上記の通り(^^;)
3/4) 【付記】「自分の木」とは,著者の生まれ育った村に伝わる話から: 人はそれぞれ,「自分の木」が山にある.そこから魂のようなものが来て生れ,死ぬとそこへ戻っていく.子供が山に入って,たまたま「自分の下」に立つと,年老いた自分に会える.そうならば,もう年老いが自分が「自分の木」の下に立てば,子供の頃の自分い会えるだろう・・・.上の結びの言葉は,その時,子供の自分に伝えたい言葉.
4/4) ▼ 読友さんのコメント: https://bookmeter.com/mutters/272352902 への,09/08 23:19 付けコメント(ありがとうございました). ▼ 大江健三郎は,若い頃短篇集を読み,訳け分かんなくて(^^;)敬遠していたけど,ずっと気にはなってはいる.というのも,私の敬愛する渡辺一夫に師事しているから.これを機会に積読山の上の方にある大江『渡辺一夫を読む』を読んでみようか・・・.
→【連想三つ】1) 西洋で,銃殺刑などに失敗して死刑囚が死ななかった場合,やり直しはせず解放することもあると聞くけど(真偽未確認),中世のこの習慣を引き継いでいる? 2) 殺生という汚れ仕事を特定の人に押し付け差別する.日本にもあった/ある.3) 米南北戦争の黒人部隊,上海事変の爆弾三勇士,第二次大戦の日系米部隊.差別された者が,差別からの解放を願って軍隊で勇猛さを示す(それぞれ史実が伝説か未確認).【余談】開拓時代の米国西部には中世ヨーロッパと似たところがある.この指摘を最初に見たのは本書だったと思う.
旧名シュロッキアン.冬眠から覚めました.でも,まだ,寝ぼけているような・・・.改めて,よろしくお願いいたします.
アイコンを変えました(2020.03.09).シュロにみえますか? 実は,テーブル椰子です(^^;).
「いいね」は,「読みました」くらいの感じで気楽に押させていただいています.ですから,「いいね」のお返しなどは気にしないでください.もちろん,「いいね」を押してもらえればうれしいけど(^^).むしろ,コメントを歓迎します.私も,気楽にコメントつけたりしますが,それが鬱陶しいとお感じの方はそうおっしゃってください.遠慮します.
なお,昔読んだ本についても気の向くままにつぶやきや感想をあげています.その際,「読んだ日」は特に調整していません(感想を書いた日のまま).ですから,読んだ本の統計(1日当たりのページ数など)は私については無意味です.
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→ 仏師が邪鬼で試みたに違いない(pp.33--34).面白い指摘で,そうかもしれないが,でも,史料に基づく論証は難しそう.3) いわゆる「宗教」を怖いと思うのは,その団体感(p.120).そうなんだよね.お釈迦様も法然上人も,“群れるな”っていっているはずなのに,と私も愚痴りたい(^^;).▼少し前に読メで紹介していただいた本.ありがとうございました.