定例の図書館に通う日。ノーベル文学賞を受賞した韓国の作家、ハン・ガンさんの本が借りられたら借りようと、韓国文学の棚の所を見てみた。見事にハン・ガンさんの本は一冊もない。別にノーベル賞受賞のコーナーが作られていた訳でもなく。やはり何かの賞を受賞するということは大したことだと改めて思った。これまで韓国文学のコーナーの本は、いつも望んだ本はほとんど借りることができたが、この熱気が沈静化するまでは待たなくてはならないかも。韓国文学が多くの人に認知されたことはよかった。がしかし、内心若干トホホな状況ではある。
Himeko is not catさん、コメントありがとうございます。そうです、クラリスにはどこか天真爛漫な、世界に向かって開かれている、成長の希望をもっている子どもたちを感じます。そして空疎な自分を、空疎だと自覚できない程にまで空疎な大人が増えてきているように感じて恐ろしくなります。
会社の経営者にも、労働者にも、こうした労働法の知識は必要だと思うが、現在はあまりにも知られていない。労働基準法すら守られないで、働かせたり、働いたりしている。労働法は労働者を守るだけではなく、会社が労働者にとって働きやすくなれば、それだけ生産性は上がるだろう。だからこそ、皆にとって知識として知っていることが必要だ。そのために中高生のうちから、こうした労働法について学ぶ機会がほしい。高校生でブラックバイトに、社会人になってブラック企業に、また雇用の滅茶苦茶さに翻弄されないためにも、そうした教育は必要だ。
ちょっと空想してみよう。人類が言葉をもったとき、また文字をもったとき、多分人類の存在の仕方を変更してしまうようなインパクトをもった「進化」が起こった。今回のAIの進歩も、それに匹敵するほどのインパクトを潜在させていないだろうか。人間と機械との関係を根底的に変更してしまうような、またAIなくして人類の存在が考えられなくなるような。突き詰めて考えていくと、AIと人類は共生できるのかとも思える。人類総家畜化という「ヤプー」みたいな世界にならないと、はたして断言できるのだろうか。そうした危惧はもつ。
見えている、感じている世界が異なっている。私たちの認識は、「ことば」のもつ世界の区切り方に依存している。世界には、「前後左右」という「ことば」をもたない人々もいるし、私たちの関知しない色の名前を使用している人々もいる。では完全に通訳不能かというとそんなこともない。私たちがヒトである以上、もっている認識する能力は普遍性をももつ。この本では、最終的に、通訳可能性と不可能性との間に、使う「ことば」の異なる人々はいるとしている。これは単純化をせずに、例えば他言語を学ぼうとするときに心に留めておかなければならない。
この本では、子どもが「ことば」を獲得し、発達していく過程も詳細に追いかける。なんと生まれて間もない赤ちゃんは、何語の発音でも聴き分けられる耳をもっているという。それが、母語に囲まれ、溢れかえった生活を続けることで、ある言語に特化された耳をもち、その言語での切り分けでモノを見るようになっていく。さらにその先に、言語や認識を自己更新していく能力を生得的にもっている。そして、様々なモノの関係性をも認識できるようになり、次第に抽象的な思考もできるようになる。人間だけがこのような能力を持つことは驚くべきことだ。
対象としては、これから働き始める、あるいはアルバイトをしようとしている、中高生向けになっている。しかし、書かれている内容は非常に濃いものであり、現在働いている労働者が読んでも役に立つ。私自身が労働組合に関した活動をしており、必要に迫られて労働法の知識を学びたいと思って読んでみた。ここに書かれていることを実行に移すだけでも、様々な労働問題を抱えている人には役に立つと思う。
それに適合する単語、さらにそこに付随してくる前置詞等を総体として使えるようにならなければ、本当にはその言語を使う話者には伝わらない。そこで、外国語を学ぶ場合には、スキーマを意識しつつ、構文やフレーズ、前置詞付きの単語、共起する類義語等を学ぶことが薦められる。特に実践編としての熟読、熟見(外国語の映画やドラマを元の言語で見、そこで使われている言葉を分析的に見る)、スピーキング、ライティングの力、特にライティングによってスキーマも身に着けていくこと等が、非常に有効であるように思われる。
一条天皇の中宮彰子や、この小説の主人公藤原賢子は、大河ドラマではまだあまり前面に出て来ていないが、両者ともにかなりの実力、実行力をもって御所及び女房たちに働きかけていたらしい。今後ドラマの方でもその辺りも描かれていくように思う。また、この小説には、和泉式部の娘・小式部、清少納言の娘・小馬(こま)も出てくる。こちらも現在母たちがドラマに登場しているので、その辺りの人間関係も面白い。いろいろと興味深く読めたのもドラマのおかげかな?
このアプダクション推論により、知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体を学習していく、そのプロセスをブートストラッピング・サイクルと名付ける。ここからはまったくの私の推論になるが、これらは板倉聖宣の「仮説実験授業」の学習論であり、また安冨歩の論語研究による孔子の「学習」論と非常に重なっているように思う。まさに人間に本来的に備わった暗黙的な学習の、自然な形となっているようだ。言語学の学習にも応用されているようだし、広く学習一般も改革していくような広範な関心領域をもっているように思う。
小学生の時に読んでワクワクしたのが『西遊記』。そこから読書が始まりました。
中学生の時にSFマガジンと出会い、その頃連載されていた小松左京『継ぐのは誰か』にのめり込み、さらに既に刊行されていた『果しなき流れの果に』を読んで人生観が変わるほどの衝撃を受けました。
高校、大学の頃にはSFも読みつつ、当時の時代の流れにのって、サルトル、カミュ、ドストエフスキー、安部公房、大江健三郎、柴田翔、高橋和巳(小松左京と京大での大親友であったことを後に知りさらにのめり込み)、登場したばかりの村上龍等を読んでました。
最近、その頃読んでいたものを読み返すことが多いのですが、「こんなこと書いてたんだ」ということばかり。再読しつつ、やはり時代を超えて残っていく作家の作品は凄いと再認識しています。
と言いつつ、今でもSFやミステリーも大好きですし、人文系や社会科学系の本も関心のある分野(文学評論、心理学、哲学、社会学、現代社会論等)では広く浅く若干乱読気味に読んでます。ただし遅読です。
今現在の若い方がどんな本に興味をもっているのかにも興味津々。いろいろ教えてほしいな、と思っています。
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このアプダクション推論により、知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体を学習していく、そのプロセスをブートストラッピング・サイクルと名付ける。ここからはまったくの私の推論になるが、これらは板倉聖宣の「仮説実験授業」の学習論であり、また安冨歩の論語研究による孔子の「学習」論と非常に重なっているように思う。まさに人間に本来的に備わった暗黙的な学習の、自然な形となっているようだ。言語学の学習にも応用されているようだし、広く学習一般も改革していくような広範な関心領域をもっているように思う。