夜の声 >> それほど多いとは言えなくとも、自分なりに小説(虚構作品)は読んできたが、まるで異質な世界に迷い込んだようだった。確かに奇妙な出来事の連鎖だったりするのだし、物語の中の登場人物たちも、戸惑ったりあれこれ騒ぎになったりはするのだが、そういった奇妙な出来事も起こりうるよねと、何処かあっけらかんとしているようなのである。作者のミルハウザーがそのように描いているんだから、読み手が文句を言っても仕方がないわけで、異次元の時空が厳然とそこにあるのを誰にも否定はできない。
ミルハウザーの世界は、メビウスの輪のようなものか。表の面をなぞっているだけのはずなのに、いつしか裏の面へ辿りついてしまうような。違うのは、元の表の面に戻れるかどうかは定かではないこと。世界は幾重もの時空の積み重なり。しかも、異次元の世界は何処かポール・デルヴォーの描く夢の夜の街に迷い込んだような、ノスタルジーの念にも似た錯覚を催す。奇妙な世界は、遠く彼方にあるのではなく、足元のマンホールか水溜まりのようにさりげなく潜んでいる。ミルハウザーの世界に嵌り込んだら、抜け出せなくなるかも。
が、以下が本書での主題だろう。それは、「プリニウスの言葉にあるように、「自然への扉」を開けることによって、アナクシマンドロスは途方もない対立を引き起こすことになった。それはつまり、根本的に性質の異なるふたつの知の対立である。一方には、好奇心、「確かさ」への反抗心、すなわち「変化」に基礎を置いた世界についての新たな知があり、もう一方には、その時代において支配的で、もっぱら神話–宗教的な思想がある。後者は「確かさ」の存在に全面的に依拠しており、そうした性質があるがゆえに、いかなる疑義も受けつけようとしない。」
これはアメリカでの幾つかの州でのダーウィンの進化論の講義を学校で許さないとか、イタリアなどでの宗教界の復古的な動きに示されている。宗教的権威を是が非でも守ろうとする立場からは、科学的探究は今もって唾棄すべき在り方なのだ。リチャード・ドーキンスやダニエル・デネットらのそうしたキリスト教原理主義的立場との格闘はそうした一端だろう。日本では想像を絶する思想的格闘が展開されている。つまり、ロヴェッリの本書でのテーマは、一科学者の単なる関心事に留まらないのだろう。
今回、折口版万葉集を詠んだので、せっかくだからと、書庫から本書を引っ張り出し、再読した。表題にあるように、橘奈良麻呂の乱に巻き込まれるなど、波乱に満ちた生涯。だが、一族の棟梁の自覚なのか、生き抜くことができたと言えるのか。大伴家持一族の盛衰に寄り添うつもりで、一週間以上を費やして読んだ。
吾輩はふと、かのエヴァリスト・ガロアが決闘の前夜、世紀の論文を「僕にはもう時間がない」と走り書きしつつ大急ぎでしたためたことを思ってしまった。内容も、「いかにして日本民族に、悲哀の文学とも称すべきものが発生したか、そしてその管理者は誰であったか、更になぜこの管理者が自分の味った悲劇として語らねばならなかったか」ということで悲壮さが伝わってくるようである。角川自身もこの処女論考が遺稿となるやもしれないという覚悟で懸命に書き上げたのだろうか。
情けなくも書店の創業者、俳人としての角川は知っていても、国文学者としてこれほどの業績があったことを本書で初めて知った。郷土の偉人。富山には角川大橋。余談だが、富山県には角川があり、角川ダムがある。角川大橋も何度か分かったことがある。この角川の「流水には上流の松倉金山や河原波金山の金気が含まれていたので、古くから黄金水と称していた」という。今回、本書を読むことで関連の情報を調べて<角川>の存在の大きさを思い知らされた。
7年前にキャンベラでは吹きつけアスベストを使用した住宅1000軒以上を政府が買い取るということがありました。劣化に伴って空中に出てくる可能性があるとのことで、全て特別な業者が解体して更地になりました。以来DYIで自宅を改修する人などもアスベストに関しては敏感になっているようです。
日本では業者もだけど政府は消極的。アスベストの危険性が認識されてからも、多少の犠牲者が出るのはやむを得ない、それより産業的な有用さが肝心という姿勢をずっと。役人は産業界しか見てない。
中島敦は、赴任中の一時期、南洋諸島のあちこちの公学校を視察した。敦はこの旅で委任統治の実態をつぶさに見ることになった。土人(ママ)たちが大好きな敦だったが、彼らへの教育が彼らを不幸にすると痛感した。彼らのための教科書作りは無意味に感じた。公学校の教育はひどいものだ、人間の子を扱っているとは思えない、そう日本への手紙に書いている。
敦は病気になったり、日本による土民教育に嫌悪感を抱いたりしたが、素晴らしい出会いもあった。民俗学者で彫刻家・画家でもあった土方久功(ひさかつ)と出会い、意気投合した。帰国後、土方は日本のゴーギャンと新聞で紹介されたりして有名になったとか。 とにかく、中島敦の息子への自筆のはがきを見ることが出来るのは、あの『山月記』や『李陵』などの敦とは違う面が見られて、楽しい。
既著でもだが、「マルクスが晩年に遺した自然科学研究、共同体研究の草稿類も参照し、『資本論』の完成を見ずに世を去った希代の社会思想家の真意を読み解いてみせ」てきた斎藤氏。「パンデミックや気候変動といった地球規模の環境危機をふまえ、いまこそ必要な社会変革に向けた実践の書として『資本論』をとらえ直す、まったく新しいマルクス論」を示している。マルクスの先見の明に驚く。
四半世紀、日本は沈没を続けることが出来るでしょうか。四半世紀前に日本は亡くなるのではないかと悲観主義の私は思うことがあります。プーチンとニコニコと30回も会談した元首相が代表するように実のある外交が出来ない日本なので……。
我輩のようなロートルはともかく、若い人たちは現状に異議を突き付けないのが不思議。奴等の支持者らの既得権を死守することで、あなた達の将来を今の政権の奴等が奪ってる。
動物は殺して食べてはいけない。では、植物はどうなのか。生き物…生命ある存在ではないのか。吾輩は、植物…野菜も命ある存在だと思う。殺生がいけないのなら、山菜だって食べちゃあかんと思う。が、生きるためには食べる必要がある。だから動物も植物も食べる。人間…に限らないが、生き物は生き物を食べて生きている。
食物連鎖。人間はその頂点にいる(と人間は思い込んでいる)。だとしたら生命体として一番、罪深い存在なのだという認識から宗教が始まるのだと思う。問題は、釈迦がどう考えていたのか、だ。本書でどう書いているかは、読んで確かめてもらいたい。
「グリア細胞」については、フィールズ,R・ダグラス著の「もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」」 (ブルーバックス)が実に面白いし参考になる: https://bookmeter.com/books/12835170
『万葉集』もだが、『古事記』の研究書で万葉仮名に触れる機会はあるが、何篇かだけでもその試みを通じて雰囲気だけでも味わいたいと思わせられる。折口の訳はなかなかとして、何処か隔靴搔痒の感が否めなくなることも。どうやったらそんな解釈に至り付くのか理解不能。彼は本書では略しているが他では説明しているようだが。
ちなみに、ジェイン・オースティンの「ノーサンガー・アビー」にて、主人公が夢中になって読むゴシック小説は、アン・ラドクリフ作の『ユドルフォ城の怪奇』 である。小生はこの作品は、オースティンが小説の中での想像の作品だとずっと思い込んできた。調べてみたら、高名な作品と知り、我ながら情けないと恥じ入った次第。
読むこと、書くこと、居眠りすることが好き。生活のために仕事も。家事や庭仕事もなんとか。
読書は雑食系かな。でも、読めるのは月に十数冊なので、実際には幾つかのジャンルに限られてるみたい。
苦手なのは、専門書や法律、マニュアル本など。
小説やエッセイを書いたりしてます。
バイクでのミニツーリングを折々。
グルメ、スポーツ、コンサートも楽しみたいけど、仕事や家事でなかなか実現しない。昨年(23年)末、薪ストーブ設置。庭木の枝葉を焚き火代わりに燃やしてます。薪はなくて柴だけなので、心底寒い時だけ。焔と共に柴の燃えてはぜる音が心地いい。
外部ブログも20年以上になりました:
日々の日記:「壺中山紫庵」 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/
創作の館:「壺中方丈庵」 http://atky.cocolog-nifty.com/houjo/
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既著でもだが、「マルクスが晩年に遺した自然科学研究、共同体研究の草稿類も参照し、『資本論』の完成を見ずに世を去った希代の社会思想家の真意を読み解いてみせ」てきた斎藤氏。「パンデミックや気候変動といった地球規模の環境危機をふまえ、いまこそ必要な社会変革に向けた実践の書として『資本論』をとらえ直す、まったく新しいマルクス論」を示している。マルクスの先見の明に驚く。