2022年4月の読書メーター 読んだ本の数:15冊 読んだページ数:4547ページ ナイス数:8400ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/556130/summary/monthly/2022/4
自分の中では、ル・クレジオは詩的イメージの豊穣さの印象が圧倒的であった。が、本書を読んで、ル・クレジオは物語の力を信じている作家だと痛感させられた。ポール・オースターばりに物語を、時に物語の中に物語を入れ子にしてまで創り出してしまう。そうか、ル・クレジオはそんな作家だったのか。これは吾輩のル・クレジオ理解が貧弱だったことなのだろう。
読了して…決して月並みではないけれど(そうでないと、さすがにノーベル文学賞は無理)、傑出しているとは云いづらい。読み続けるのが苦痛だったのは確か。仕事の合間に何とか読み流した。
「2008年10月には、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が詳細に取り上げられ」(Wikipediaより)たこともあるらしい。 余談だが、 北海道開拓……。富山からも多数。アイヌからしたら、植民地支配。徹底的に虐げられた。欧米が中南米を……なんて言ってる場合じゃなかった。和人の仕打ちの歴史をこそ知らなくっちゃと、猛省を迫られた。
個人的な思い出をメモると、吾輩が初めてアイヌ文化(?)に接したのは、1972年の6月。友人と北海道をテントを背負ってのキャンプ旅行をした際のこと。登別だったか記憶は定かではないが、某所でアイヌらしき風貌の方が木彫りの実演販売をしていた。極めて簡素…安直な木彫りと呼ぶのも躊躇われる人形を売っていた。つい勢いで買ってしまった。今も部屋の片隅に残っている。
明治時代の(少なくとも)途中からは国家のトップに(も)人物がいなくなった。それは男どもの愚かさもあるが、女性らが声をあげ(あげることができ)なくなったからではないか。社会の半分の人達の知恵や勇気が封殺されたら、社会は半身不随じゃないの?
「森まゆみは、女性が小説だけで身を立てようと志したのは「日本史上初の無謀な決心」と位置付けている」という。 全作品を読み尽くすのは難しくないはず。が、富山の書店には「大つごもり」や「十三夜」などの代表的な作品すら在庫がない。なんて文学的貧困なんだろう。
16歳からの日記。16歳の頃は、生真面目でその年代らしく、あるいは我輩が書いたかもしれない……それが19歳の頃、史男は自らの芸術家たらんとする衝動……意志が急激に…爆発的に高まる。時に二階堂奥歯かのような呟きも……。意思を固めたのか。ギリギリ瀬戸際の魂の叫び。何者かたらんとし、何者でもない現実との落差は、あまりに巨大。
自身が語るように、触覚研究の大ファンとして本書を書いた。訳者あとがきにあるように、「詳細な科学的解説と日常的エピソードを巧みに混ぜ合わせながら、脳と神経の世界を案内してくれる。」 さらに蛇足でなく訳者は付け加える。「何かにつけて話が性的な方面に流れがちになるところも相変わらず」なのだった。
触覚は、性的触れあい戯れに見られるように、極めて総合的なもの、人間(に限らず)の感覚の基本そのものだ。分かったことも膨大だが、分からないことも多々あることも事実。奥行きは深い。触覚は分かったようで分からない世界。だからどれだけ探求しても果てることはないだろう。難解な部分もあるが、楽しんで読むことが肝心だろう。
家康に限らず武家は家を存続させるため、小作りに戦以上の戦いを夜毎繰り広げていた。それこそ懸命に。女児が生まれたら、闇に葬られることも珍しくなかった。女は借り腹の対象に他ならない。男系の系譜を保つには側室は不可欠だったと思い知る。天皇家の存続で男系女系論議がなされているようだが、本書で男系を保つことの困難さを学ぶべきだろう。そのために一石を投じた本ではないのだが。
表題の、「「卑しい体」がつくる医学、技術、権力の歴史」が肝心。「卑しい」とは時代によって政治体制などによって変わるが、「人体実験に供与される運命にあった人々は、死刑宣告を受けた者、懲役中の者、獄につながれた者、孤児、娼婦、植民地住民、瀕死の病人であり、その境界性には常に道徳的言説が用意されていた。」わけである。
そこにマルクスの「資本論序文」で指摘されているように、プロレタリアートも含めていいだろう。何ゆえかはネタバレになるので書かないでおく。クロード・ベルナールやパスツールやコッホらを観る目も変わる。ずっしりと重い読後感だけは保証できる。
地元富山の作家詩人を読む一環。冬二は父の任地福島市で生まれた。父は今の黒部市生地町生まれ。母やえ(え はや行のえ)は、水橋生まれ。母の母は、安田銀行の創始者安田善次郎の妹。だからか、大学卒業後、安田銀行に入社。詩集「青い夜道」が有名。
我が郷土ゆかりの小説を知りたくて、半ば資料集のつもりで読み出した。とんでもなかった。多数の作品が簡潔にダイジェストされてて、凝縮された短編集みたい。失礼な言い方ながら、掘出し物の本。恐らく今後も拾い読みはさせてもらう。
観察することで、雲のように掴みどころのない陽炎のような状態ながらも、眩く煌めていた掛け替えのない現実を収縮…崩壊…委縮させるのではなく、そこにそのままにあらしめようと希(こいねが)うのである。
とめどなく繰り返す波、豊かでぷっくりした幻のような女性の乳房、夜空の星座、月の満ち欠け、ありとあらゆる現実世界…。私が眺めることで崩壊させてしまうなら、いっそのこと私などいなけば世界は安泰で平穏なのか。言葉こそが、書物こそが私を世界から遠ざけている元凶なのではないか。記述すること、考えることはやめにしよう。「その瞬間、かれは死を迎える。」
読むこと、書くこと、居眠りすることが好き。生活のために仕事も。家事や庭仕事もなんとか。
読書は雑食系かな。でも、読めるのは月に十数冊なので、実際には幾つかのジャンルに限られてるみたい。
苦手なのは、専門書や法律、マニュアル本など。
小説やエッセイを書いたりしてます。
バイクでのミニツーリングを折々。
グルメ、スポーツ、コンサートも楽しみたいけど、仕事や家事でなかなか実現しない。昨年(23年)末、薪ストーブ設置。庭木の枝葉を焚き火代わりに燃やしてます。薪はなくて柴だけなので、心底寒い時だけ。焔と共に柴の燃えてはぜる音が心地いい。
外部ブログも20年以上になりました:
日々の日記:「壺中山紫庵」 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/
創作の館:「壺中方丈庵」 http://atky.cocolog-nifty.com/houjo/
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明治時代の(少なくとも)途中からは国家のトップに(も)人物がいなくなった。それは男どもの愚かさもあるが、女性らが声をあげ(あげることができ)なくなったからではないか。社会の半分の人達の知恵や勇気が封殺されたら、社会は半身不随じゃないの?
「森まゆみは、女性が小説だけで身を立てようと志したのは「日本史上初の無謀な決心」と位置付けている」という。 全作品を読み尽くすのは難しくないはず。が、富山の書店には「大つごもり」や「十三夜」などの代表的な作品すら在庫がない。なんて文学的貧困なんだろう。