本を読んでいて思ったのが、被告人の身柄の問題が酷い。痴漢事件のように比較的軽微な量刑の事件に、身柄拘束をされたままどこまで闘えるのかは極めてシビアで、罰金5万円の条例違反事案で110日勾留されたケースもある。罰金刑の換刑処分は一日五千円なのだから、五万円で10日間勾留するのは有罪判決宣告前に系を先取り執行してしまっている。この問題はやや改善気味であるが、強制猥褻事案になると被害者証言が終わるまで保釈しない現状が依然として続いているそうだ。
このような状態だと、「嘘でも起訴事実を認めて早く保釈された方が良い」「さっさと認めて示談した方がいい」と思う人が出ても当然だろう。しかし、これは市民の側からの「四方に対する絶望宣言」と把握すべきだろう。そもそも、裁判官による拘留要件の吟味がきちんと審査されずに勾留状が発付されているのが根本の問題である。痴漢冤罪の問題は考えれば考えるほどにシステムの問題だと思った。
せっかく調べたので、足立区短歌。「私たち 二人だけでも滅ぼせる 世界があるってニュースで聞いた」「かつてこの荒れ地も区だったことがある俺らが愛を叫ぶ前だぜ」「指先の 熱で世界が溶けていくこんな些細な心の機微で」「「このキスで どこか消えたら どうしよう」「それはあれでしょ、自己責任論」」「この川の向こうに行けば私達 くちづけだけで区を滅ぼせる」「「俺の事、お前どれだけ愛してる?」 「多分足立区程度は殺せる」」
個人的には、あまり難しい言葉を使うことが好きじゃない。すごく独りよがりな感じがするから。でも、新しい概念を知ると、少しだけ現実の解像度が良くなる。そして、その言葉を知ったうえで、誰かにその意味を上手に話せるようになりたい。「現実の解像度を上げる」+「他人にも説明できるようになる」の欲望を満たすように使って遊ぶと、この本も結構楽しかった。
著者曰く、ここで言われている論理は、指導要領の論理国語「性格」の項目から切り出すと「①課題発見能力、②情報の信頼性の見極め、③論拠に基づいて構築」らしい。ここで重要になるのは、②その情報がどうやって作られたか読み解くことと、③正しい論拠に基づいて構築できることである。著者の言葉で納得したのは「論理ではなく、論拠を探せ」というものだった。つまり、論理は「「なぜ?」に答えられる論拠を出せ。その論拠・根拠は確固たるものでないとダメだ」である。個人的に課題発見能力は論理なのかな、と思った。
自分の感想。改めて、「国語」という教科を考えると確かに不思議な教科だ。方程式が解けるようになる数学力が上がったと言える。英語が読めるようになるは英語力が上がったと言える。じゃあ、国語力が上がったってどういう状態なのか?日本語はすでに読めるし、小説に対して深い読みができるようになるって言っても、国語で教えている内容は深い読みか?また、テストや入試問題と普段の授業が乖離しているという点も非常に頷けた。
しかも、夢洲に行くためには橋とトンネルしかなく、交通の便も悪いらしい。大阪万博が決まった当時、候補地としては、吹田の万博跡地や鶴見緑地、泉佐野りんくうタウンなど6ヵ所あったそうだが、夢洲が無理やり7ヵ所目として出され、松井市長の思いでそこに決められたそうだ。現在、カジノ業者への賃料の談合疑惑、1200億円→1850億円→2350億円と膨れ上がる会場建設費。そして、万博から逃げるゼネコン、カジノから逃げる業者と酷い惨状になっているのだが、どうするんだろう…。
ちなみに「カジノは経済効果がある」とさんざん言われているが、カジノで大負けした客の掛け金は、カジノがなかったら、地元のレストランや海水浴に使うかもしれなかったお金だ。わざわざカジノに落とす必要があるのか。そして、たとえカジノが儲かっても、その副作用としてギャンブル依存症の対策をしなくてはならず、その費用も考えるとあまり儲からないのでは?とも思った。
これらは江戸時代より前からこの呼び方だったが、女王は最近なので、まだじょおーが正しいとされてる。これは別の音を付け加えたが、体育・体育館など逆に音を落とす例もある」「週末はいつから?金曜日のみ4%、金曜日と土曜日17%、土曜日のみ10%、土曜日と日曜日47%、日曜日のみ2%、金曜日の夜から日曜日の夜まで18%、と結構バラバラ。ちなみに、日曜日は主末に含む67%、金曜日は週末に含む39%」
「昼過ぎに運転を再開した。昼過ぎって?遅くとも午後一時頃35%ぐらい、遅くとも午後0時15分頃35%ぐらい。結構伯仲してる」「大丈夫と思います。「だ抜き」言葉」「眠いと眠たい。強いて言うなら、眠たいの方が実感がこもっている。うざいとうざったいの違い」「甘いものが好きな人は甘党。辛いものが好きな人は辛党は30代まではそっちが正しいと思ってるが、それ以上は辛党=酒飲み」
「ねじれ国会」「ゲリラ豪雨」「パワースポット」「帰宅難民」「ヘイトスピーチ」「仮想通過」「危険ドラッグ(合法ドラッグ、違法ドラッグ、脱泡ドラッグを統一)」「マタハラ」「レジェンド」「自撮り」「モラハラ」「マイナンバー」
広辞苑には載ってないもの。「あげまん」「オヤジギャル」「コギャル」「ヤンママ」「メル友」「脳トレ」「ビフォーアフター」「鬼嫁」「シェアハウス」「ツンデレ」「どや顔」「お祈りメール」「KY」「鈍感力」「モンスターペアレント」「闇サイト」「派遣切り」「イクメン」「女子会」「ブラック企業」「レガシー」「一億総活躍社会」「爆買い」「神ってる」「フェイクニュース」「インスタ映え」「eスポーツ」
左右10回ほど円を描くように口の中から表情金をほぐす。もう一つ意識すべきは舌の位置。黙っている時は舌を上顎の真ん中につけるを習慣化すると、柔らかな表情に変わる」「最も効率よく時代の顔を手に入れるのはアイシャドウ。最低でも年に4回は買ってる」「マツエクはやめた方が若く見える。まつ毛パーマの方が、ナチュラルに目力が出せるのでいい」
「眉だけはプロに頼る。サロンで「こんなに眉と眉の間を開けていいの?」「こんなにまっすぐでいいの?」と思うが、「顔がやわらかくなった」と言われたらしい。自分で見るのと他人から見るのではやはり違う」「ピラティスはヨガに似ているが、ヨガよりもややハードな動きが多く、もっと結果を」と求める人向き。インナーマッスルを鍛え、姿勢とボディラインを整えるエクササイズ」
不都合な史実をうやむやにすることで、歴史についての知識が十分でないモノの思考を停止させ、沈黙させることで、自らのイデオロギーに基づく歴史観を大衆に広げているのである。つまり、多くの人々が「本当の所はよくわかっていない」「難しい問題だ」という印象を持って沈黙することを狙い、自分の歴史観・自国のアイデンティティ賛美を広げているのである。②「排外主義との関係」。外国出自の集団の国民国家の脅威というイデオロギーを正当化するための道具として、歴史修正主義が使われる。
③「人権とのかかわり」。慰安婦問題=戦時性暴力問題は人権問題である。その人権問題を歴史認識の問題へとスライドし、人権問題を不問にするために使われている。また、あいちトリエンナーレの例だと、人権問題が表現の自由の問題にスライドしてしまったと著者は指摘していた。最後にある座談会で、倉橋氏は「歴史学は、歴史では何が、なぜ起こったのかを実証的に解明しようとしている。しかし、一方で、その歴史をどのように認識するかという評価も大切。そこを、歴史修正主義にかすめ取られている」と言っていて、非常に納得した。
ただ、須藤さんの方が良いって人の意見も分からなくはない。何がしたいか明確に分かるもの。ただ、具体的な話をすると、因果の説明は、基本的な「Aが起きればBが起きる」みたいな“普通”の因果を説明してくれてる伊勢田さんの方が分かりやすかった。ビリヤードの例は常時機どちらもあまり分からなかった(汗)。でも、「科学哲学のゴールは何か?」みたいな須藤さんの質問は、もっともだと思った。「何がしたいかが分からん。科学を分かりたいって、概念をこねくり回してるだけで、進む気あるの?」ってのは分からないでもない。
優しそうな人だと思ったが、思ったよりも好戦的だった。「別にその方法じゃなくてもいいのではないでしょうか?」とか「それって具体的に何を指してますか?リベラルが後退したというのはどこを指して言っているのですか?ナショナリズムが高揚するのが悪いことのように言いますが、日本のことは日本人で考えようと、韓国人は消えろはかなり距離があるでしょう」など、ふわっとした言葉や発言を許さない・見逃さないところは見習いたい。
ただ、普通の対談に慣れていると、小熊の対談は一つの台詞がかなり長い。3~5ページをずっと一人が話してるってのがざらにある。そして、それ故に、互いに一つの話題を投げ合って、レスポンスをし合う形にはならない。レスポンスをしない訳じゃないけど、2~3回のレスポンスでその話題が終わってしまうので、「何の話をしてたっけ…?」となる。これが小熊英二らしさ・この本の編集方針といえばそうなのかもしれないけど、なかなか慣れなかった。
これに対して、著者はイギリスのウィンブルドンの例を挙げていた。2013年、イギリス男性がウィンブルドンで77年ぶりに制覇したらしい。つまり、77年間、イギリス人の優勝はなかったわけだ。しかし、それでもウィンブルドン大会はイギリスで大盛況だった。自国選手が出なくとも、観客は熱狂して足を運ぶ。これが文化としてスポーツが根付いているということだろう。良い音色に国籍がないように、良い試合やプレーに国籍はないはずなのだ。
自分の感想としては、やはりメダリストの話が面白かった。これを読んだ後だと、色々な選手が「もう試合に出ない」ということがどれだけ大変なのかが分かる。見ている私ですら、「まだいけそうなのに」と思うくらいなのだから、本人はかなりの思いで「やめる」を決断しているのだろう。やめるはやるよりもはるかに難しい。内村航平も北島康介も大変だったのだろう。
「同性愛が当たり前になってしまったら、BLは成り立たなくなるんじゃないかって聞かれたことがあります。「いや、それはありないと思います」と私は堪えました。「だって、男女の恋愛が『一般的』だからといって、男女の恋愛物語が描かれない時代がありましたか?90年代で読むのをやめてしまった方とかはそう言う意識の方が多いのかもしれないけど」
「逆カプ。時として読者の間で、「お前のチン棒へし折ってやる!」と戦いが勃発する問題ですね。でも、色々読んでいくうちに「なんでもアリ」になってくる。若い時は「自分はこれが好きです」っていうことを表明することで、自分を表現する、自分を定義したい欲求が強い。でも年を取ると、好きな者が一定じゃなかったり、嫌いなモノを認めても、自分は揺らがないし変わらないことが分かってくるから」「私はもう「チン棒」に響くかどうかですよ(三浦)。私は、自分のチン棒の形状を分析するのが好きなのかも(溝口)」
コラムで紹介されていたが、自分が悩める責任主体である時は「障害のある方を優先させていただきます」などかなり下からの物言いになるが、上からの通達などでは「深夜列車を削減」「代行運輸は行いません」とかなりぶっきらぼうになるらしい。日本人は人間関係を重視するから丁寧と思っていたが、自分が責任主体の場合はそうなるが、そうでなければ結構ぶっきらぼうなので、丁寧な民族というよりも自分が主体の時の関係を非常に気にする民族と言った方が正しいかも。
もう一つ、面白かったのは、サウナグラビアのおのののか「しっかり整わせていただいた。最高!」の例だ。もはやさせていただくは、あなたの存在や役割を必要とする「あなた認知」の動詞ではなくなり、自分が丁寧に話すための美化語になったとしていた。ちなみに、私の言語感覚だとそこまで変じゃない。サウナを作ってくれた人・用意してくれた人のおかげでサウナに入ることができるのだから、その人たちの感謝を込めて「整わせていただきました」は全然あり。「社会は色々な人によって成り立ってるんだよ」を内面化し過ぎているのかもしれないけど。
「服装にもメイクにもいつもより数倍気を配りながら、自分は今誰に向けて外見を整えているのだろうかと思う。気になっていたあの人だろうか、見下してきたあの人だろうか。それとも、過去の自分だろうか」「私が今笑っているか泣いているのかが私にしかわからないようにあの子の本当の笑顔も涙も液晶は映さない」「黒歴史の玉手箱」「負けてよかったのかもしれない。いや、よかったのだ。今は、そう思うべきなのだ……」「大人の怪談は急すぎて手すりがないと転げ落ちそう」「非日常が死んだ。日常はまだ死んでいる」
そして、これは日本だけの話か。米兵が駐在しているのは、韓国やオランダ、ドイツもそうである。この本では1970年代のデータだが、他国の事例も紹介されていた。分類として、米兵の犯罪に自国が第一次裁判権を持つオランダ型と、米兵の犯罪は基本的には米兵で裁いてもらうが重大なモノ(殺人、強姦、強盗、通貨犯罪、連邦裁判所の管轄下の犯罪など)は自国で裁くドイツ型が紹介されていた。前者の方が厳しそうに思えるかもしれないが、オランダは第一次裁判権を100%放棄しており、ドイツの方が厳しいみたいだ。
そんなドイツでも、1963年~1970年までのデータでは99.5%は米国に裁判を任せている。ただこれは圧政の結果というよりも、ドイツの検察官・裁判所と米軍当局が緊密に連携しているため、両者の信頼関係が築かれており、ドイツよりもアメリカの軍事裁判所の方が厳しい処罰をしてくれるとドイツが評価してくれているからだ。また、競合的裁判権の対象となる罪を犯す米兵の多くは21歳以下で、ドイツだと少年裁判所邦画適応され、保護観察付きの仮釈放処分が下される場合が多くなるため、それなら米国に委ねた方がいいというのもある。
「生息子(女をしないむすこ、生娘はまだあるのにね)」「愚女(自分の娘の謙譲語、愚息・愚妹・愚兄はまだあるのに)」「携番(定着しなかった流行語)」「コギャル(ギャルは健在だが、コギャルはもうないみたい)」「地味婚(2000年前後に流行、派手婚も消えた)」「聖徳太子(一万円の俗称として)」「心障(精神障害の意、差別的な語感なので)」「シンジング(抜け毛防止のため髪の毛の先をこてで焼くこと。そんなことしてたの?)」「赤外線通信(これは消えるべくした消えた。でも、ポケベルはまだあるらしい)」
「テクシー(うちの親には伝わった。私は知らなかったけど)」「ながら族(昔の団地族、みゆき族、窓際族など無数の族の一つ。2005年にもヒルズ族、タワマン族、ぼっち族とあったが、今では「○○系」「○○民」「○○界隈」に代わってきている)」「握り金玉(何もしないで手持無沙汰でいること。こんな表現があったんだ)」「マイナスイオン(正式な用語ではないとして廃項。第二版~第三版では「これを含む空気は健康に良いと言われる」とあったらしい)」「街の天使(売春婦。こんな言葉が辞書にあったんだ)」
しかし、「ぼかし表現・あいまい表現」は、相手への心理的配慮として日本語ではよく使われる。「りんごを三つほどください」「一応学生やってます」「~などしてます」「お茶とかどう?」等がそれだ。若者言葉「~っぽい」「~的な」「好き、かも」もぼかしである。他にもストレートに言わないモノとして、トイレは名前が変わりやすい。「便所」から「雪隠」「ご不浄」「お手洗い」「化粧室」「おトイレ」と様々に呼ばれている。
第二章は「成人後に使いこなす敬語」だったが、敬語と世間を考えさせられる面白いテーマだった。例えば、子供が敬語を使わないのは当たり前の話。私は逆に、子供の時、敬語を使うべきか否かですごく迷ったので、非常に微妙な問題だと思った。他にも「社内の人を呼び捨てにするもの」や「うちの子に「あげる」は変か(うちの子に離乳食をあげるはおかいし、やると言うべき)」は面白かった。ただ、「あげる」はもはや定着したっぽい。「花に水を上げる」を言葉の乱れと答える人は二割以下だそうだ。
堅いは「中身が詰まって砕けにくい」で反対は「もろい」。固いは「全体が強くて形が変わらない。で反対は「ゆるい」(文化庁「言葉に関する問答集10(1984)」「一応するのが「おざなり」、しない場合もあるのが「なおざり」」「感染者が3000人台を突破は何人?3000人越え34.0%、3001~3999人19.9%、4000人以上27.7%、決められない19.4%」
「妙齢の女性は、まだ若い33.9%、若いとは言えないぐらい56.4%。でも若い女性のこと。妙=女+少(若い)」「コロナウイルスとのたたかい。戦い24.5%、闘い60.5%。戦争なら戦、困難には闘」「無観客の反対語として有観客。はっきり「おかしい」とする人は4割。有○○は少なく、有意義と有資格、航空用語の有視界ぐらいしかない。無○○は無教養、無国籍、無重力、無関心と色々とある」
義足のジャンパーであるマルクス・レームの章が面白かった。「義足という道具を使っているレームは普通の人間と言えるのか」。これをアクターネットワーク理論から考える。アクターネットワーク理論は、人間とそうでないものを対等に見做すというものだ。非人間を人間と同様の行為者・アクターとして扱うことで、人間と非人間が繋がり合い、関係しあうハイブリッドなネットワークを描き出す。彼らにとって、主体性とは、何らかのアクターに内在するものではなく、こうしたハイブリッドなネットワークから現れてくるものである。(続)
つまり、この理論では主体性とは人間から出発するものではなく、ハイブリッドなネットワークという関係性から生じた「効果」と考えるのだ。そして、そう考えると、レームも義足とのネットワークによって現れる主体と見ることができるだろう。レームと義足をバラバラに考えても意味がない。道具によって現れる新しい人間像こそ考えなくてはならない。
また、体育を1とした時の運動部活動における熱中症事故の発生倍率は10.2である。他の骨折、捻挫、脱臼、挫傷・打撲、人体損傷・断裂もだいたい2倍くらいある。高校の場合も、熱中症率は63.9%が運動部活時だ。そして、高校の場合、体育を1とした場合の熱中症事故の発生倍率は15.7であり、他も2~3倍である。熱中症事故が最も起こっている種目は、部員一万人当たりの発生率を見ると、ソフトボール、野球、ラグビーが3トップだ。着衣条件と長時間練習が理由として挙げられるらしい。
よくよく考えると、制度設計されておらず、自主的な活動とされていて、でも教育ということになっている部活動というのは非常に奇妙な現象だ。考えれば考えるほどに不思議な位置づけである。ちなみに、別の章で「部活動は学習指導要領に置いてどういった位置づけか?」という質問に、教育課程外と答えた者は56.6%であり、教育課程内、記述はない、分からないは43.4%といた。教師の中でも分かってない人が結構いるのである。
女性漫画家が作った、男の身体を使った究極の愛の実験と称されていたが、確かに、すごい話だった。「厩戸王子の毛人への思いは何だったのか?」「なぜ厩戸王子は女が嫌いなのか?」「なぜ厩戸王子は母親が嫌いなのか?」と色々と考えるところも多い。
逆に21世紀の言葉の変化としては、ケータイに関する新語が多い。「メアド」「メル友」「着メロ」「写メ」「デコメ」「着拒」。また、インターネットに関するもので「ホムペ」「カキコ」「コメする」「オフ会」「フォローする」「リプ」「なう」などがそれに当たる。また、ギャル語「アリエッティ」「おこ」「オシャンティー」「神ってる」「ただいマンモス」「とりま」などや、オタク用語「歴女」「マミる」「聖地巡礼」「推しメン」なども多い。
TwitterやLINE用語から「リプ」「本垢」「リア垢」「コメ返」「浮上」「バカッター」「オワタ」「ワロタ」「既読スルー」「リア友」も出てきたみたいだ。俗語覚書。「アイス(高利貸し、氷菓子、アイスクリーム、アイス)」「アメしょん(ほんのわずかな機関だけアメリカに滞在)」「共同便所(売春婦)」「サイノロジー(妻惚学、夫が妻に甘くて、いいなりになること)」「テクシー(てくてく歩いていく事、岩波国語辞典にはあったらしい)」「話がピーマン(話の中身がない)」「耳が餃子と耳がダンボ」「MMK(もててもてて困る)」
痴漢裁判の最大の問題点は、一人の人間が証言するだけで、直ちに有罪が認定される点にある。この被疑者証言に補強証拠が必要とされない体制が問題なのだ。1976年イギリス・デブリン委員会の報告によると、「たとえ、2人以上の識別供述があっても補強証拠がなければそれだけは有罪とはできない」とある。また、弁護人立証に対する無理解もあり、弁護人が必死で探し、作成した証拠について検察官が不同意と述べると、裁判官がいとも簡単に却下するらしい。このように現状の痴漢裁判は、供述証拠とか客観証拠の証拠価値が逆転しているそうだ。
裁判官は、被害女性の証言が、有罪の6要件を満たすか。つまり「具体的・詳細・迫真性・合理的・主観的革新・嘘をつく動機が見当たらない」があればすぐに認めてしまうのである。しかし、痴漢犯人の特定は、被害女性のカンや推測によって、犯人だと思われたに過ぎない者が犯人にされている場合も少なくない。具体性や詳細は警察での供述の時に作り出されるものであり、これを基準として考えることの危険性が指摘されていた。あと、痴漢冤罪を掛けられた沖田国賠事件は覚えておきたい。
また別の視点が開ける。もしドーピングをして勝った場合、それはお前が強いんじゃなくて、お前が使った薬が強かっただけだ、となるだろう。その時に思うのは「私は何のためにスポーツをしてきたのか?」だろう。それは独裁国で、王の所有するチームが常に優勝することになっている優勝チームの選手が感じる虚無感と繋がっているかもしれない。そして、その時に、思うのは「本当は自分はどのくらい強いのか」という絶望にも似た問いである。もしドーピングが解禁された世界のアスリートは、このような問いと戦いながら競技を行わなくてはならない。
自分の感想としては、ドーピングの問題を突き詰めて考える時に出てくるのが「我々はなぜスポーツをするのか」だろう。私は楽しさのためだと思う。勝ち負けが重要ではなく、それまでの過程が大切なのだ。そのため、ドーピングは本来のスポーツの目的と手段が逆転した結果に思う。本来の意義からズレて、スポーツそのものよりも勝ち負けを重視してしまう。遺伝子ドーピングを考えるほどに、今のスポーツは堕しているのだろうと思った。
また、別のモノを援用したもの「全力投球」「全員野球」「○○職人」も、個人的には趣がある。立項されてなかったし、今は消えたが、肩を揉みながら「○○選手~」ってのもあった気がする。野球が援用されがちなのは、日本だからなのかな。いやでも、「寝技」とか柔道だし、「自爆営業」とかは軍隊っぽい。けど、やっぱり「ロスタイム」とか「ゴールキーパー」、「スリーポイントシュート」とは使わないよね。
覚書。「アゴアシ付き」「朝活」「言った言わない」「打たれ強さ」「エクストリーム出社」「お局」「オンとオフ」「顔採用」「学生気分」「カツカツ」「ガッチャンコ」「ガラガラポン」「軽く一杯」「がんばりどころ」「キャパ」「休日返上」「今日中」「九時五時」「経営者目線」「拘束時間」「コスト意識」「CCに入れる」「サービス残業」「自己開示」「仕事抜きで」「自己評価」「社長案件」「ストレス耐性」「全力投球」「即戦力」「全員野球」「他者への想像力」「定時」「出たとこ勝負」「寝技」「○○職人」「○○マター」
監視システムによる捜査強化に繋がる。しかし、逆に損害の補填や心の支援、地域社会のエンパワーメントなどは苦手分野であり、あまりよい成果には繋がっていない。被害者運動が政治化した結果、被害者が刑事司法に入るのはある程度分かるが、人権保障と適正手続きを侵す形になってしまうのは悲劇だ。例えば、刑事司法改革にかかわる法制審議会特別部会の委員に犯罪被害者団体が入り、取調べの全面可視化に強い異論を繰り返すのは不幸としか言いようがない。
被害者が刑事司法に入ることによって、適正手続きなどのデュープロセスが侵される事例とは何か。ここで取り上げられていたのは、被告人質問で、それは被告人の黙秘権を侵すことになってしまうかもしれない。また、被害者信条意見陳述は反対尋問ができないのに、量刑に関する証拠として使える。もし彼らが間違ったことを言っても反対尋問で正すことはできないのだ。また、遺影の持ち込みなども「別にいいんじゃないの」と私は思っていたが、それは結局、証拠ではないもので裁判員や裁判官の心証に影響を与えることになってしまう。
2012年ロンドン五輪に置いて、日本男子柔道は初めて金メダルを取れなかった。しかし、それは著者にとっては驚くに値しないと言う。日本選手は何を武器に戦ったのか?韓国は一貫した強化方針として体力作りを行っていたが、日本は何をしていたか?日本は身体能力では海外の選手に劣ることを自覚し、だから技を磨くと言う戦略だが、実際に技という武器が手に入れられなかった選手がすがるのは何であったのか。さらに言えば、日本はヨーロッパの選手が優れている駆け引きや勝負強さも見られなかった、と辛辣だった。
山口香は、スポーツ選手でありながら、スポーツのことについて深く考えているのが面白い(著者にしてみれば、スポーツ選手こそが自分がやるスポーツの価値にもっと自覚的にならなければいけないのだろうが)。スポーツは尊いモノとされているが本当か。今のスポーツは本来の尊いスポーツの価値を体現できているのか。こういう厳しい批判や視線があってこそ、私のようなスポーツアンチにも響くスポーツ論になるのだと思う。今のスポーツって美辞麗句に彩られた、金と差別と野蛮に塗れた儀式にしか思えないもの。
それと、ブランパン、EWC、ヴァシュロン・コンスタンタン、ブレゲの時計。アルニスの帽子。タナー・クロール、ジュコシマダのセーター、マニュファクチュア・ド・モナコのディナープレート。リモージュのカップ。エルメスのヒマラヤ・マットクロコダイル。ジャガー・ルクルト。レベルソ・スクアドラ。ブルーイタリアンの皿など、お金持ちグッズがいっぱい出てきてたから、あとでググって楽しもう(笑)。
「背が高くていらっしゃるのね。どんなお洋服でも似合いそう。ぜひ素敵なレストランでお食事をご一緒したいわ。絵になる方と同じテーブルに着くことはとても喜ばしいことだから」「それが素晴らしいのよ。利害というのは簡単に一致しないモノなの。そして、それが継続することがとても稀なのね」「そういうふうに思ってもらってもなんら不都合はないわ。そういうことだから。お互いに得をする関係こそが長続きするものでしょう」。修平のお母さまの台詞。一度は言ってみたいよね。
ようやく自分の感想なのだが、非常に面白かった。なぜか私も素朴に「ナチスにも良い政策はあっただろう」と思っていた。実際、雇用を作ったのは事実だし。しかし、失業者600万人中で50万の雇用を創出するのなら、ぶっちゃけ私でもできそう。官僚に丸投げしてもそれくらいはできそうだし。たぶん、誰がやろうともテキトーな政策はできるのだろう。だから、その一部だけを見て良いこともしたと思うのは不適切だと思う。全体と歴史的流れを見れば、ナチ政権のダメさがよく分かった。
ナチスのことを擁護する意見をする人は、明らかに全体が見えていないように思える。「雇用政策をした(600万人中50万人だよ)」「フォルクスワーゲンを作った(一台も納車されてないよ)」「がん研究に力を入れた(それってナチス前からやってたよね)」を知らない。全体も、その流れも、その結果も知らないから、一部を切り取って良いこともしたと言ってしまう。でもそれって、様々な意見があるでもなんでもなくて、端的に間違っているだよね。なお、これを読んだ後、なんJを見てみた。絶望した。
不定性「自分は男でも女でもなく、二つの性別の間をいったり来たりしている。女性を目指してトランスジェンダーしてるけど、女性らしさにこだわることに窮屈さを感じるから等」。その他「正直性自認という感覚がよく分からないみたいな人」。海外だとXジェンダーではなく、ジェンダーに否定(a)をつけたagenderと言うらしい。Xジェンダーってのは日本独特みたい。
自分の感想。対談の中で「Xジェンダーの人って社会に対しては何を求めているのか」と問われて、どう答えていいのか困ったというのがあった。これは確かに難しいと思った。何をどう変えたらいいのか分からない。意識下・無意識下での性別での区別をなくしてほしいが、おそらく望んでいることだと思うけど、それはXジェンダーの人だって他人に対して性別で区別をしている訳で、どう変更したらいいのか分からないんだと思う。「資本主義がダメならどうしたらいい訳?」ってのに似てる。問題なのだけど、具体的な代替案が出せない感じ。
それが実現するまでにそれほど時間を要しない場合は「そのうち」で、遠い未来をさす場合は「いずれ」、そのうち退院できると、いずれ退院できる。全部だけど細かいところは除くのニュアンスが入るのが「大体」で、ニュアンスとしては九分九厘なのが「ほぼ」。自分の意志で聞こうとした時が「聞ける」で、自然に耳に入ってくる音や声が「聞こえる」。
話している時点からかなり近い過去だと「この頃・最近」だが、この頃は少なくとも一年以内で、最近は五年くらいまで使える。ひどく汗をかいており、一生懸命という意味合いも入るのが「汗だく」で、身に付けている物まで汗に汚れているのが「汗まみれ」。問い合わせでいい加減な様子が「おざなり」で、いい加減なまま放っておくのが「なおざり」。
私は結婚していないけど、嫌いな人が嫌いになっている状況のリアルさはひしひしと伝わってきた。妻の方も夫の方もむっちゃ分かる。無視されると思うと話しかけなくなっていき、互いに不機嫌オーラが漂って、必要なことでも話さなくなる(必要なことは頑張って話すけど、必要か否か微妙なものはマジで話しかけなくなっていく)。最終的にはもう視界に入れただけで不愉快になる。廊下ですれ違うだけでも嫌。なぜ嫌いかを考える以前に身体が拒否する。まさに生理的に無理の状況だ。
「私はクィアだ、周辺に立ち続ける。でも、「まっとうだ」とか「正当だ」とか、「普通だ」と思っているあなたは何者なの?」と問い続ける。」「トラウマをめぐる事象は、個人を核とする「症状―診断―治療」の医療過程に収まらない問題を含む。それは、想起と忘却、過去と現在の項さ、あるいは現在への過去の侵入、こころと身体の区別の融解、乖離や二次的トラウマ化に見る自己と他者の境界の崩壊、死と生の接近、個人と集団の一体化と疎外、など、一見対立し、距離を保っていた項目が集約的にもつれている状況である。
このもつれは、人文・社会科学がこれまで当然のこととして依拠してきた自己の統合性や自他などの二元論を否定する。このっもつれを解いて「正常化」するのではなく、その全体を理解することこそ、人文・社会科学にとって重要な暇に身である。(田中雅一『トラウマ研究1』)」。「語れずにいたことを語ることができるか。については、問いを反転したい。語られない記憶があるのではなく、聴かれない記憶があると考えるべきではないか」。私もクィアのパワーや姿勢を常に持っておきたい。
歓喜力行団は1938年には年間1000万人以上の旅行の機会を提供するに至ったが、その圧倒的多数は日帰りか数日の国内旅行の参加者であり、数週間の海外旅行は高嶺の花のままだった。「万人のための車」としてヒトラー自身により開発が発表され、ポルシェが設計し、他社の最安モデルよりも三割以上安い(66万5000円)で販売すると銘打ったフォルクスワーゲンに至っては、数十万もの人々が積立金を支払い、巨大な生産工場が建設されたにもかかわらず、予約購入者に一台たりとも納車されないまま
開戦後に生産ラインが軍用車生産に切り替えられ、結果的にそれは巨額の積立金を軍事目的に流用するだけに終わったのだ。さらに言えば、異常な規模とスピードで進む軍備拡張は消費財生産を圧迫し、政府の賃金抑制措置も相俟って、消費生活水準の向上を阻害した。景気上昇と雇用拡大により国民全体の所得は増加したものの、これと同時に労働時間も伸びたので実質賃金は低下した。開戦後も軍需優先・消費停滞の状況は続き、食料配給性の導入で消費経済がさらに縮小したこともあって、所得のかなりの部分が貯蓄に回ることになった。
様々な学問の美味しいところだけをかじる偏食的な読書家。
知能を拡張してくれるようなSFが好き。スタニスワフ・レム先生。
法学、社会学、美学、経営学、教育学、心理学、行政学、政治学、神学、犯罪学、福祉学、倫理学、社会心理学、メディア論、障害学、交渉学、歴史学、体育学、コーチング学、セクシュアリティ論、紛争解決学、組織論、幸福学、音楽学など色々と手を付けてます。
天然・妄想癖という属性を持ってます。非常識は病理ではなく個性とポジティブに考えてます。思考がクリアで発想力がある頭がいい人の話を聞くのが好きです。
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ようやく自分の感想なのだが、非常に面白かった。なぜか私も素朴に「ナチスにも良い政策はあっただろう」と思っていた。実際、雇用を作ったのは事実だし。しかし、失業者600万人中で50万の雇用を創出するのなら、ぶっちゃけ私でもできそう。官僚に丸投げしてもそれくらいはできそうだし。たぶん、誰がやろうともテキトーな政策はできるのだろう。だから、その一部だけを見て良いこともしたと思うのは不適切だと思う。全体と歴史的流れを見れば、ナチ政権のダメさがよく分かった。
ナチスのことを擁護する意見をする人は、明らかに全体が見えていないように思える。「雇用政策をした(600万人中50万人だよ)」「フォルクスワーゲンを作った(一台も納車されてないよ)」「がん研究に力を入れた(それってナチス前からやってたよね)」を知らない。全体も、その流れも、その結果も知らないから、一部を切り取って良いこともしたと言ってしまう。でもそれって、様々な意見があるでもなんでもなくて、端的に間違っているだよね。なお、これを読んだ後、なんJを見てみた。絶望した。