次世界大戦中の日韓、日中関係の歴史について学ぶことがあった。関東大震災の朝鮮人虐殺、強制連行、南京大虐殺、七三一…。年配の方から「なかった」「ドイツやソ連と比較して、日本はそれほど大きなことをしていない」「戦後生まれは見ていない」など非人情ことを何度か言われた。しかし、書かれたものを精査・検証すれば、誰もが歴史的の事実がわかる。危惧するのは二元的なものの見方は、統制されやすいことである。日清・日露の戦争は日本・中国・朝鮮の運命を決定する岐路であった。そしてこれらの戦争を考える場合攻められ、侵略された側の→
ことを考えないと、ひとりよがりの戦争観ができあがる(ロシアとウクライナの停戦合意に向けて、動き出したかに見えるアメリカやヨーロッパの間の意見交換を見てもあきらか)。また本書を読めば、自由主義史観がいかに生半可であったかも理解できる。
忠清南道天安郡木川(天安市)に生まれた。両親は娘に新しい学問を身につけさせようと思い、京城(ソウル特別市)の大学で学ばせたという。愛読書は『ジャンヌ・ダルク』だった。1919年3月1日、京城に宗教指導者が集い「独立万歳」を叫んだ。女学生の柳寛順は隊列に加わり、憲兵隊に捕まった後、獄中でも「独立万歳」を叫んだという。韓国における最近の研究では三・一運動における柳寛順の役割が大きなものではなかったと周知されている。映画などの媒体で神話化され、また教会で宣教のための英雄として活用された。史実と経歴、獄中→
の待遇などに諸説があり、高校の歴史教科書から名前が削除されたという。しかし独立運動があったことは歴史的事実なので、 クリスチャンで朝鮮独立運動家の群れにいたひとりだったのかなという気がしている。
者のお母様は、昭和6年生まれ。ご祖父様は呉服屋を営んでおられたらしい。母も同じ年に生まれ、祖父母は呉服屋を営んでいた。しかも、先祖が薩摩だから、似ているところがあるかもしれない。〈オトンはいつも、サンダーバード5号のように、宇宙のどこか、詳しくはわからないが、遠いどこかにかにプカプカ浮いているような存在だった〉。私の家は父が中心にいて、母がサンダバード5号のように家の中をぐるぐる回っていた。 小学生の頃、誕生日に同級生が何人か来てくれた。同世代の女の子はめったに来なかったけど…。母は同級生にシチューを食→
べさせた。母から花札やトランプを使わないゲームを教わったと、同級生がSNSで知らせてくれた。母の手を引いたのはウラジオストクの交差点だった。晩年、体調を崩すことが多くなり入院した。毎日のように見舞うと、1階のコンビニに出かけた。ストレス解消になっていたようだった。脳梗塞で右半身に麻痺が残った。話すことができなかったが、笑ったり、問いかけに頷くことができた。母が亡くなって8年。iMacにWindouwsXPが居候している。3杯目のご飯も食べ放題らしい。日記に私の子供の頃のことが書いてある。
「こんな化け物は村にゃおけん」と言われて、村人たちに烏帽子山へ追い立てられる。やがて村に飢饉が訪れると、村人たちは長者様の蔵にある食料を狙って一揆。その中にしばてんがいた。食料をわけあった村人はしばてんを引き止めて、幸せに暮らしていたが、役人の沙汰があると「しばてんがやりました」と罪を着せる。若い頃に読んだかもしれない、その時は絵に見とれて、お話が頭に入ってこなかった。
田島征三◉1940年、大阪府堺市に生まれる。戦後は父の郷里である高知県春野町に一家で移住した。ここで幼少期を過ごした。高校卒業後、多摩美術大学図案科を卒業。在学中に本書のプロトタイプを手刷りで仕上げた。代表作に『ふるやのもり』『ふきまんぶく』、早乙女勝元の『猫は生きている』など。
られる。エアブラシを使うのは、アナログ写真のフィルムを印画紙に焼くような、手仕事の痕が残らないようにするためだという。技術を習得するため京都市工業試験場(現在の京都市産業技術研究所)へーー昼間は中学校の勤務があるので夜間に通った。ご尊父様は婦人科の医者で、ご長男は画家だった。ご次男は歯科医。三男の公三氏も医者になるべく受験したが不合格だったので、ご尊父様に好きな道へ進むのを許されたというが、婦人科の画家になったと「あとがき」にユーモアをまじえて書いてある。1924年、名古屋市生まれ。京都市立絵画専門学校→
日本画本科卒業(現在の京都市立芸術大学美術科)。帰郷して中学校の美術教員になる。1950年に京都に移り、洋画に転向してからは、1964年まで光風会に出品した。一時期はセメントを使った抽象表現を試みていた。1968年、アカデミックな場から離れ、裸婦などを描く独自の世界を築いた。2000年、死去。
(1942年〜 )はチリ共和国への潜入を計画した。ミゲル・リッティンは、1973年のクーデターの際に逮捕・監禁・拷問という立場にいたが、収容所に連行されるのを免れ、亡命していた。潜入し際しては、ウルグアイ人に変装。チリ・イタリア・フランスのチームを組み、撮影は極秘裏に行われた。レジスタンスと連絡をとるために日本製のラジオが使われたという。乱数で連絡したのだろうか? 盗聴はなかったのか? 国家警備隊員や愛国戦線のメンバーとのやりとりなどハラハラする場面もあるが、最終的にモネーダの宮殿にはアジェンデを想わせ→
るものは何ひとつおいていなかったという。軍の不満分子と会うために暗号を把握したが、数日経っても先方からの連絡はなかった。リッティン監督が帰国した時の話をガルシア=マルケスがまとめたのが本書である。いかんせん、直訳調で何を言わんとしているのか理解し難い箇所がある。小学生の頃、チリのクーデターについて知った。子供心に戒厳令のことを社会の教師だった父に尋ねた。戦前にはあったが今はないという話だった。緊急事態宣言の時は不安から恐怖に陥った。韓国の非常戒厳、憲法への緊急事態条項について考えようと手にした。
バージニア・リー・バートン(1909〜1968年)=アメリカの絵本作家・画家・デザイナー。1909年、マサチューセッツ州に生まれた。奨学金を得て、美術とバレエを学ぶ。ボストン美術館の素描クラスで彫刻家のジョージ・デメトリアスの指導を受ける。デメトリアスと結婚後「いたずらきかんしゃちゅうちゅう」(1937年)、「ちいさいおうち」(1942年)、「せいめいのれきし」(1962)などを描いた。1941年、オリジナルのデザインを布地に印刷・販売したフォリーコーブ・デザイナーズを立ち上げたことでも知られる。
ニックネームのtacchiniyanは、イタリア語っぽく「タッキニヤン」と発音します。
海外文学・日本文学・歴史・美術・音楽などの本。また、両親が遺してくれた本、自分で買った本ーー最近は古書ーーを少しずつ読んでいます。
毎日、旧約聖書(新共同訳)と、犬養道子『新約聖書物語』(新潮社)を読み。礼拝の予習でNew King James Version(欽定訳聖書)を読むのが日課になっています。
絵やイラストを描きます。アイコンは「歌っているのは誰」(2024年)の部分です。
日本基督教団 京都葵教会(プロテスタント)の教会員です。2024年5月現在、礼拝と聖歌隊の練習は行われています。毎月、昼食会や各委員会、青年会などの交わりがあります。
8年間、印刷会社でグラフィックデザインを手がけ、19年間、修学旅行の資料を扱う出版社で編集をしていました。そして5年間、古美術商の出版部に勤務したのち躁鬱病・パニック障害で休職しました。精神障害者2級です。ご理解をお願いします🙏
ときどき1960〜1990年代の思い出をつぶやきます。
愛猫「まる」と暮らしています。弟がいます。
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解散)の結成に参加。戦後の日本画界で新しい運動を展開した同協会の第1回展から出品を続け、やがて指導的役割を果たし、最晩年まで協会とともに歩んだ。鳥をモチーフにした作品は当初、建築用の墨つぼで直線を描くという表現をしていた。海外で展示をする頃には、紙粘土で画面を盛り上げたレリーフ状の鳥を表現するという、独自の質感を持った作風へと移行していった。ほかにも版画や陶芸(やけもの)、舞台美術、エッセイも残した。