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tacchiniyanさんの感想・レビュー

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tacchiniyan
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父が社会科の教員だった頃、同じ中学校で美術科の教員をしておられた。生前からお噂は伺っていたが、お会いしたことはない。1990年代、京都府立文化芸術会館の個展で「還暦の自画像」や、鳥をモチーフにしたレリーフのような日本画を見た。本書に追悼文を寄せておられるのは、梅原猛、木村重信、奈良本辰也、宮尾登美子、三尾公三、不動茂弥、高野澄、清水九兵衛など錚々たる方々。美術界にとどまらず、交際の広い方だったという感じがした。◉下村良之介(1923〜1998年)大阪生まれ。1949年、パンリアル美術協会(〜2020年に→
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解散)の結成に参加。戦後の日本画界で新しい運動を展開した同協会の第1回展から出品を続け、やがて指導的役割を果たし、最晩年まで協会とともに歩んだ。鳥をモチーフにした作品は当初、建築用の墨つぼで直線を描くという表現をしていた。海外で展示をする頃には、紙粘土で画面を盛り上げたレリーフ状の鳥を表現するという、独自の質感を持った作風へと移行していった。ほかにも版画や陶芸(やけもの)、舞台美術、エッセイも残した。

03/27 18:09
0255文字
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再読。「坂の上の雲」の再放送が終わったが、録画したままでまだ見ていない。ただ、エンドクレジットの原作という項目に『坂の上の雲』のほかに『「明治」という国家』『この国のかたち』と表記。本書に上記の3つの著書について言及がある。司馬遼太郎の小説は、新聞記者だった経験から、過剰な読者へのサービスを行い、高度経済成長期のサラリーマンの心情に落ちるように、希望や勇気を与える書き方をしていた反面。歴史を「明るい」「暗い」の二元的な捉え方をしていた。「暗い」ことを書けば読者が去る。これを読んだ当初、仕事の関係上、第二→
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次世界大戦中の日韓、日中関係の歴史について学ぶことがあった。関東大震災の朝鮮人虐殺、強制連行、南京大虐殺、七三一…。年配の方から「なかった」「ドイツやソ連と比較して、日本はそれほど大きなことをしていない」「戦後生まれは見ていない」など非人情ことを何度か言われた。しかし、書かれたものを精査・検証すれば、誰もが歴史的の事実がわかる。危惧するのは二元的なものの見方は、統制されやすいことである。日清・日露の戦争は日本・中国・朝鮮の運命を決定する岐路であった。そしてこれらの戦争を考える場合攻められ、侵略された側の→

03/17 16:16
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ことを考えないと、ひとりよがりの戦争観ができあがる(ロシアとウクライナの停戦合意に向けて、動き出したかに見えるアメリカやヨーロッパの間の意見交換を見てもあきらか)。また本書を読めば、自由主義史観がいかに生半可であったかも理解できる。

03/17 16:18
0255文字
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1995年に韓国・ソウル特別市へ行った。言葉は勉強していたので、挨拶程度の会話はできた。ただ戦前の歴史については触れない方がよいと考えていた。ある日、ガイドさんがバスで奨忠壇公園を通りかかった時に銅像を指さして「あの女性をご存知でしょう?」と聞かれた。「柳寛順(ユガンスン)ですよ」と言われた。角田房子著『閔妃暗殺』についても聞かれた。帰国後、柳寛順と閔妃は何か関係があるのかなと思い、大阪へ韓国の映画を見に行った帰りに、鶴橋で韓国の本を扱う書店へ立ち寄った。手に取ったのが本書である。柳寛順は1902年に→
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忠清南道天安郡木川(天安市)に生まれた。両親は娘に新しい学問を身につけさせようと思い、京城(ソウル特別市)の大学で学ばせたという。愛読書は『ジャンヌ・ダルク』だった。1919年3月1日、京城に宗教指導者が集い「独立万歳」を叫んだ。女学生の柳寛順は隊列に加わり、憲兵隊に捕まった後、獄中でも「独立万歳」を叫んだという。韓国における最近の研究では三・一運動における柳寛順の役割が大きなものではなかったと周知されている。映画などの媒体で神話化され、また教会で宣教のための英雄として活用された。史実と経歴、獄中→

03/03 17:57
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の待遇などに諸説があり、高校の歴史教科書から名前が削除されたという。しかし独立運動があったことは歴史的事実なので、 クリスチャンで朝鮮独立運動家の群れにいたひとりだったのかなという気がしている。

03/03 17:58
0255文字
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子供の頃の思い出…特に両親、そして弟、父方や母方の祖父母、叔父・叔母、伯父・伯母の記憶というのは、はなはだ曖昧で脳裏にはっきりした輪郭はあっても、いざ文章にするとなると、なかなか難しい。アルバムを見ても静止した両親と私、祖父母を懐かしいと感じるだけ。友達との思い出も転校して、引っ越してしまうと、そこで記憶が途切れてしまう。どうしてるかなぁという想いだけが残る。本書を読んで、ずっとそんなことを思い出していた。著者のご両親とご親戚、煙突とボタ山の見えた故郷に対する想いが一杯ちりばめられた私小説だと感じた。著→
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者のお母様は、昭和6年生まれ。ご祖父様は呉服屋を営んでおられたらしい。母も同じ年に生まれ、祖父母は呉服屋を営んでいた。しかも、先祖が薩摩だから、似ているところがあるかもしれない。〈オトンはいつも、サンダーバード5号のように、宇宙のどこか、詳しくはわからないが、遠いどこかにかにプカプカ浮いているような存在だった〉。私の家は父が中心にいて、母がサンダバード5号のように家の中をぐるぐる回っていた。 小学生の頃、誕生日に同級生が何人か来てくれた。同世代の女の子はめったに来なかったけど…。母は同級生にシチューを食→

02/23 20:30
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べさせた。母から花札やトランプを使わないゲームを教わったと、同級生がSNSで知らせてくれた。母の手を引いたのはウラジオストクの交差点だった。晩年、体調を崩すことが多くなり入院した。毎日のように見舞うと、1階のコンビニに出かけた。ストレス解消になっていたようだった。脳梗塞で右半身に麻痺が残った。話すことができなかったが、笑ったり、問いかけに頷くことができた。母が亡くなって8年。iMacにWindouwsXPが居候している。3杯目のご飯も食べ放題らしい。日記に私の子供の頃のことが書いてある。

02/23 20:42
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児童文学ゼミで田島征三・田島征彦ご兄弟のことが時々、話題になった。『ふるやのもり』『ふきまんぶく』などの有名な絵本がある中で、この絵本は異彩を放っていた。しばてん(芝天狗とも書く)は、高知県や徳島県に伝わる河童に似た妖怪で、外形は身長約1メートル程度、全身は体毛で覆われているという。人間を見るとやたら相撲をとりたがり、その力量は人間の大人を上回るらしい。相撲の組んだ人間は、しばてんに化かされてやたらと相撲をとりつづけることになる。村に「太郎はしばてんの生まれ変わりじゃ」と噂が流れ、やがて太郎は長者様が→
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「こんな化け物は村にゃおけん」と言われて、村人たちに烏帽子山へ追い立てられる。やがて村に飢饉が訪れると、村人たちは長者様の蔵にある食料を狙って一揆。その中にしばてんがいた。食料をわけあった村人はしばてんを引き止めて、幸せに暮らしていたが、役人の沙汰があると「しばてんがやりました」と罪を着せる。若い頃に読んだかもしれない、その時は絵に見とれて、お話が頭に入ってこなかった。

02/21 18:01
tacchiniyan

田島征三◉1940年、大阪府堺市に生まれる。戦後は父の郷里である高知県春野町に一家で移住した。ここで幼少期を過ごした。高校卒業後、多摩美術大学図案科を卒業。在学中に本書のプロトタイプを手刷りで仕上げた。代表作に『ふるやのもり』『ふきまんぶく』、早乙女勝元の『猫は生きている』など。

02/21 18:01
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父の本棚より。父が教員だった頃、同じ学校の教員だった三尾公三氏から学校新聞の作り方について、相談を受けたという。もっとも写真週刊誌「FOCUS」の表紙を手がけるずっと前の話。後年、高島屋で「心象空間への誘い 三尾公三展」で再会したと聞いた。本書はデッサンから完成までの過程が詳細に書いてある。写真を使っていると思われがちだが、モデルを前にデッサンした下絵を歪ませて、トロンプルイユや錯視・幻覚的な画面をエアブラシによってリアルに描いている。シェイプド・キャンバス(変型パネル)を使うから表現に広がりが感じ→
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られる。エアブラシを使うのは、アナログ写真のフィルムを印画紙に焼くような、手仕事の痕が残らないようにするためだという。技術を習得するため京都市工業試験場(現在の京都市産業技術研究所)へーー昼間は中学校の勤務があるので夜間に通った。ご尊父様は婦人科の医者で、ご長男は画家だった。ご次男は歯科医。三男の公三氏も医者になるべく受験したが不合格だったので、ご尊父様に好きな道へ進むのを許されたというが、婦人科の画家になったと「あとがき」にユーモアをまじえて書いてある。1924年、名古屋市生まれ。京都市立絵画専門学校→

01/17 15:05
tacchiniyan

日本画本科卒業(現在の京都市立芸術大学美術科)。帰郷して中学校の美術教員になる。1950年に京都に移り、洋画に転向してからは、1964年まで光風会に出品した。一時期はセメントを使った抽象表現を試みていた。1968年、アカデミックな場から離れ、裸婦などを描く独自の世界を築いた。2000年、死去。

01/17 15:06
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tacchiniyan
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2022年2月10日、京都みなみ会館で観た。駅周辺や通りに通行人や観光客は少なかった割に、館内はほぼ満席だった。王家衞監督によれば、二部構成の映画にしようと考えていたが、一部を撮影したところで二部を合わせた予算を超えたという。トニー・レオンが唐突に現れて、わだかまりが残ってしまう。物語が背景とする年代と生まれた年代が一致するので、懐かしい…。それと何だか気だるい感じがする。監督は外国文学をたくさん読むらしい。プイグ著『天使の恥部』から刺激を受けて、映画を撮影したという。あのオムニバス形式の小説は好き。
kaoru

『欲望の翼』、レスリー・チャンがとても印象的でした。

01/11 18:58
tacchiniyan

kaoruさん、こんばんは。そうでしたね。劇場でデジタルリマスター版を観ました。

01/11 19:42
0255文字
tacchiniyan
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1970年、チリ共和国。サルバドル・アジェンデが大統領に当選した。アジェンデ政権は議会制のもとで社会主義国家を実現することを目指した初めての政府で、国際的に注目を浴びたが、成立後3年たらずの1973年。奇しくも9月11日、軍部のクーデターによって倒された。その後は アウグスト・ピノチェトが実質上の政権を握った。しかしクーデターの水面下で民主化要求運動が続いていた。それは1983〜1984年にかけて高揚期を迎えるが、軍部は1984年11月、戒厳令を布告した。同じ時期に映画監督のミゲル・リッティン→
tacchiniyan

(1942年〜 )はチリ共和国への潜入を計画した。ミゲル・リッティンは、1973年のクーデターの際に逮捕・監禁・拷問という立場にいたが、収容所に連行されるのを免れ、亡命していた。潜入し際しては、ウルグアイ人に変装。チリ・イタリア・フランスのチームを組み、撮影は極秘裏に行われた。レジスタンスと連絡をとるために日本製のラジオが使われたという。乱数で連絡したのだろうか? 盗聴はなかったのか? 国家警備隊員や愛国戦線のメンバーとのやりとりなどハラハラする場面もあるが、最終的にモネーダの宮殿にはアジェンデを想わせ→

01/03 21:05
tacchiniyan

るものは何ひとつおいていなかったという。軍の不満分子と会うために暗号を把握したが、数日経っても先方からの連絡はなかった。リッティン監督が帰国した時の話をガルシア=マルケスがまとめたのが本書である。いかんせん、直訳調で何を言わんとしているのか理解し難い箇所がある。小学生の頃、チリのクーデターについて知った。子供心に戒厳令のことを社会の教師だった父に尋ねた。戦前にはあったが今はないという話だった。緊急事態宣言の時は不安から恐怖に陥った。韓国の非常戒厳、憲法への緊急事態条項について考えようと手にした。

01/03 21:18
0255文字
tacchiniyan
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「まひろ」の撮影日記…クランクインの半年前から書道の練習をしていたらしい。吉高さんは左利き。書道の根本知先生の指導を受け、撮影は「おびえながら挑んだ」という。第34回「曲水の宴」で羽觴(うしょう)をラジコンで動かしていたことは驚いた。中宮彰子の出産と祈祷のシーンを見て、父が持っていた『日本の歴史 第3巻・平安貴族』(読売新聞社、1959年)の口絵…日本画家・安田靫彦「御産の祷」を想起させた。大河ドラマプレイバックは「炎立つ」(1993年)はあまり記憶がない。渡辺謙も里見浩太朗も「べらぼう」に出演される。
0255文字
tacchiniyan
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初読は小学生2〜3年生だった。毎年、雪が降りそうな空を見ていると読んでいる。トラクターのケイティーはディーゼルエンジンで、道路工事には舗装用と悪路用のキャタピラを、除雪時にはハート型のラッセルを取り付け、ブルトーザーとしても使える。 ジェオポリスという街の役所の道路管理部で働いている。夏は道路工事に、冬は25センチの大雪になると出動する。道路脇に『ちいさいおうち』が並ぶ。ケイティーの紹介ページに描いてある小さな絵と文字を読み、 地図を見るのが好きだった。何度も読んだので、表紙とページがはずれている。→
tacchiniyan

バージニア・リー・バートン(1909〜1968年)=アメリカの絵本作家・画家・デザイナー。1909年、マサチューセッツ州に生まれた。奨学金を得て、美術とバレエを学ぶ。ボストン美術館の素描クラスで彫刻家のジョージ・デメトリアスの指導を受ける。デメトリアスと結婚後「いたずらきかんしゃちゅうちゅう」(1937年)、「ちいさいおうち」(1942年)、「せいめいのれきし」(1962)などを描いた。1941年、オリジナルのデザインを布地に印刷・販売したフォリーコーブ・デザイナーズを立ち上げたことでも知られる。

12/23 20:16
0255文字

ユーザーデータ

読書データ

プロフィール

登録日
2016/08/26(3138日経過)
記録初日
1970/01/10(20168日経過)
読んだ本
669冊(1日平均0.03冊)
読んだページ
144364ページ(1日平均7ページ)
感想・レビュー
620件(投稿率92.7%)
本棚
13棚
性別
現住所
京都府
自己紹介

ニックネームのtacchiniyanは、イタリア語っぽく「タッキニヤン」と発音します。

海外文学・日本文学・歴史・美術・音楽などの本。また、両親が遺してくれた本、自分で買った本ーー最近は古書ーーを少しずつ読んでいます。

毎日、旧約聖書(新共同訳)と、犬養道子『新約聖書物語』(新潮社)を読み。礼拝の予習でNew King James Version(欽定訳聖書)を読むのが日課になっています。

絵やイラストを描きます。アイコンは「歌っているのは誰」(2024年)の部分です。

日本基督教団 京都葵教会(プロテスタント)の教会員です。2024年5月現在、礼拝と聖歌隊の練習は行われています。毎月、昼食会や各委員会、青年会などの交わりがあります。

8年間、印刷会社でグラフィックデザインを手がけ、19年間、修学旅行の資料を扱う出版社で編集をしていました。そして5年間、古美術商の出版部に勤務したのち躁鬱病・パニック障害で休職しました。精神障害者2級です。ご理解をお願いします🙏

ときどき1960〜1990年代の思い出をつぶやきます。

愛猫「まる」と暮らしています。弟がいます。

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