先月の一番は、なんといってもチャールズ・C.マン著の「魔術師と予言者――2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い」だ。気象変動や環境破壊あるいは保存を巡っての科学者たちの熾烈な格闘。知れば、気候変動の危機なんてデッチ上げだなんて言えなくなる! 2023年1月の読書メーター 読んだ本の数:14冊 読んだページ数:5706ページ ナイス数:6139ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/556130/summary/monthly/2023/1
猫に片想いする吾輩も、猫に絡む雑文は創作を含めあれこれ書いてきた。「月を眺める猫」「漱石と猫と鼻」「「深山ねこ岳修行」…猫の王」「我が家の庭は猫の庭」「国芳の多彩な画業猫ゆずり?」「猫の恋」「竈猫(かまどねこ)」「猫…生まれいずる夢」「猫、春の憂鬱を歩く」「猫と扇風機の思い出」「雨の日の猫の仕草に目をとどめ」などなど。ホームページには幾つもの創作をアップしたが、ホームページと共に消滅してしまった。
豊富な挿画(イラスト)は、著者の友人であるアラン・ピーターズの手になるもの。やや学究的な記述が続く中、折々に挟まれるイラストが長旅の休憩所であり一服の清涼でもあった。
宇宙が数学の言葉で書かれているかどうか分からないが、数学無くしての理解はありえないのだろう。数学には純然たる研究のレベルにとどまっているものが膨大にあるらしい。だとしたら、宇宙の究極の理解は遥か彼方の夢ということになる…?
冗長な叙述があまりに多いと批判めいたことを繰り返したが、それが本作……ユゴーの小説の血肉でもある。ファストな理解、物語の筋把握の邪魔、脂身だとばかりに削っちゃったらユゴーらしさは消えてしまう。メルヴィルの「白鯨」から鯨の蘊蓄を語る個所を抉るようなもの。
今もウクライナにおいて、それどころか地震禍のシリアやトルコにあってすら戦禍の真っただ中である。日本は無邪気にもアメリカの戦略に呑み込まれ、戦争に加担する国になろうとしている。日本の政治指導者が戦争を知らないいかに無知な世代になってしまったかを想わざるを得ない。
ところで小生は本作を読む切っ掛けは、現状の世界や日本の危うさを思ってのことではなかった。過日読了したベッセル・ヴァン・デア・コーク【著】『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』(柴田 裕之訳 紀伊國屋書店)にて、本作品の一文が引用されていたのだ。この本は、第一次世界大戦での戦傷者たちのトラウマ体験の訴えも縷々取り上げられていて、その中でレマルクのこの作品に言及されたわけである。
1956-57年に岩波から刊行されたものを、さらに2000年に辻 昶によって用語などを改めたものを底本とし、2016年に刊行されたもの。訳に古さは全く感じない。当然ながら、言葉遣いその他に現代にあっては不適切なこともあるが、時代を鑑みるに仕方ないだろう。
著者プロフィール:「1946年静岡県生まれ。(中略)専門は地球物理学、比較惑星学、アストロバイオロジー。NASA客員研究員、東京大学大学院教授を経て東京大学名誉教授。2009年より千葉工業大学惑星探査研究センター所長。12年より政府の宇宙政策委員会委員(委員長代理)。86年、英国の『ネイチャー』誌に海の誕生を解明した「水惑星の理論」を発表、NHKの科学番組『地球大紀行』の制作に参加。」「「堀内賞」や第61回毎日出版文化賞(自然科学部門)を受賞。」
最後に、前にも触れたが、なかなか面白い本だったが、校正ミスが目立つ。鈍な我輩でも気に障る。拙速な出版だったのか、この出版社には不馴れなジャンルだったからか。情けない。著者に、読者に申し訳ないぞ!
一方、AIに限界はあるのだろうか。AIに人間への忖度はあるのだろうか。命令されたら人間を殺すことを厭わない? アルゴリズムに一定の制約をはめ込む? 何処かの国家がAIで国民を制御する? 1984社会が実現してしまう? 既に実現してる? 政治家や支配者はAIを使っての統治の実現という衝動を抑えられる?
危機は見えているのだろうか。そもそも何処に危機があるのか。気付かないうちに限界突破してしまっているとしたら? 小説でこうしたテーマを追うのは難しいだろう。書いた途端に陳腐な説明の羅列になりがちだからだ。本短編集は少なくとも深甚なる問い掛けを迫ってくるものとは言えない気がした。
著者:米国マサチューセッツ州ブルックラインのトラウマセンターの創立者・メディカルディレクター。ボストン大学医学部精神科教授。国立複雑性トラウマトリートメントネットワークのディレクター。ボストン在住。世界各地で教鞭を執っている。邦訳された著書に、『サイコロジカル・トラウマ』(金剛出版)、『トラウマティック・ストレス』(共著、誠信書房)がある。
書店で発掘した本。予備知識なく、トラウマなる題名に惹かれて。パラパラ捲って良書を確信。表紙の人が暗夜に踊る(のたうつ)絵に違和感を覚えた。買うのを躊躇わせた。それでも直感を信じて買った。自分の鑑識眼を褒めたい。……基本、この手の本を買うのは、自分にもある種のトラウマがあるのだろう。
松岡和子氏は、「1942年、旧満州新京生まれ。東京女子大学英文科卒業。東京大学大学院修士課程修了。翻訳家・演劇評論家」だとか。海外の小説や戯曲は登場人物の名前を覚えるのが億劫になって、敬遠気味になっている。それでも、松岡版の世評の高さもあり、昨年から徐々に松岡版を読み出している。
ベルトコンベアーから流れるプラスチックの箱に入った本を仕分けする。十数人がベルトコンベヤーを取り巻いており、職場の長らしい図体の立派な奴が常時見張っていて、一瞬も気が抜けない。やったのは僅か三か月だが、その三か月で、筋肉モリモリになった。胸の筋肉があれほど盛り上がったのはあの時期だけだ。
時間にきっちりしていて、その代わり休憩時間も厳守。15分の休憩時間には、眼前の山のような本を片っ端から読み漁っていた。我が手垢に塗れた本が相当な数 市中に流れたと思うと、なんだか妙な気分である。
所収の「良心の問題」の問題の人物名は、ジャン・シャルヴァン。誰でもかの有名な小説の主人公の名を連想するだろう。ジャン・バルジャンである。 「フランスの作家ユゴーの小説《レ・ミゼラブル》(1862)の主人公。貧しい職人ジャン・バルジャンは,飢えに泣く姉のこどもたちを救おうとしてパンを盗んだために投獄される。」……モームは何か意図していた?
最終章の「漱石100年後の小説家」も興味深かったが、「言葉の宙に迷い、カオスを渡る」や「文学の伝承」などは考えさせられるヒントが多々。特に「『古事記』以来の日本語の文学のスパンで考えると、今後最初に消滅してしまうのが近代文学なのだろうと思います」という大江の発言(に至る対談の流れ)は何か深甚なる思いを抱かせる。
読むこと、書くこと、居眠りすることが好き。生活のために仕事も。家事や庭仕事もなんとか。
読書は雑食系かな。でも、読めるのは月に十数冊なので、実際には幾つかのジャンルに限られてるみたい。
苦手なのは、専門書や法律、マニュアル本など。
小説やエッセイを書いたりしてます。
バイクでのミニツーリングを折々。
グルメ、スポーツ、コンサートも楽しみたいけど、仕事や家事でなかなか実現しない。昨年(23年)末、薪ストーブ設置。庭木の枝葉を焚き火代わりに燃やしてます。薪はなくて柴だけなので、心底寒い時だけ。焔と共に柴の燃えてはぜる音が心地いい。
外部ブログも20年以上になりました:
日々の日記:「壺中山紫庵」 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/
創作の館:「壺中方丈庵」 http://atky.cocolog-nifty.com/houjo/
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