
皆様、今月もどうぞよろしくお願いします。☆ヴェネツィアさんの2025年5月の読書メーター 読んだ本の数:117冊 読んだページ数:14155ページ ナイス数:51768ナイス ★ヴェネツィアさんの2025年5月に読んだ本一覧はこちら→ >> https://bookmeter.com/users/157091/summary/monthly/2025/5
ヴェネツィアさん、おはようございます😊いつもありがとうございます✨✨✨今月もどうぞよろしくお願い致します🌸🌸🌸アリョーシャくんはお元気ですか?🐶🐶🐶
⇒それもまたわからなくはない。千紘が最後にやったこと、および賞レースの結末は想像通りだったが、エンディングは余計であったように思う。もっとも、ああでもしなければ救われないのであるが。
⇒感じさせる。松阪の小津家、羽曳野の吉村家、奈良の今西家書院など重文になっているものは、さすがに単に古いだけではない様式美を持っている。それでも、私が最も心惹かれるのは沖縄の伝統建築の民家である。
⇒なのだが、その構造の核心にあるのは、ファンタジーとしての想像力ではないかと思うのである。なお、巻末に「デューンの生態学」や「デューンの宗教」が付されているが、それは物語世界を補完するものであると同時に、物語そのものに語らせることができなかったことの補遺のようにも思える。物語に一層のリアリティと構想の大きさを示すものとするのが概ねの解釈だとは思うのだが。【ガーディアン必読1000】
⇒また、伝統食によく見られる調理法として、発酵があげられる。先の「ふなずし」以外にも、秋田の「ハタハタずし」、飛騨の「ねずし」、 小浜市(福井県)の「鯖のへしこ」、高島市(滋賀県)の「鯖のなれずし」などは、みなこの類である。
⇒人も多そうだけど。図書館にある古い「太陽」などの雑誌を読んでいると、様々なコマーシャル・フォトが見られ、しばし懐旧の想いにとらわれるが、この絵本もあんな感じだ。
朝日新聞で拝読してました。激しく同意する感想です。哀しみを昇華されているだろうなぁと、当時羨ましいとも思ってしまいました。直木賞作家さんに対して失礼は承知なのでご容赦ください🙏
⇒立派。その他、特徴のあるものでは、鶴岡の兜造り、 山形の高八方造り、山梨の切破風造りなど、いずれもその独特のフォルムが美しい。ちなみに、表紙写真は魚沼の旧目黒家。もちろんこれも重文である。
⇒思えるほどである。私のイメージする壮大なSFといえば、クラークの『幼年期の終わり』、あるいは『2001年宇宙の旅』あたりなのだが(これでも十分に古いSFなのだが)この『デューン』のスペース・オペラ然としたタッチに戸惑うのである。
ヴェネツィアさん、カムイも期待大でしたがちょっとね、砂漠の脱出はそこそこでしたがフレメンとの対峙はもう中東の民族をモチーフにしている感じがジハードなんて言葉を使うと拍子抜けだったりしました。
⇒あたりからは次第に勢いがついてきて、太宰自身ももはや品位云々ではなくなってくる。戦時下での、空襲の夜のくだりあたりからは、もうどの人物も(もちろん太宰も)酒に飲まれていくのであった。
どの項目の民具にもあてはまることなのだが、ことに「祈る・祭る・呪う」のものを見ると、アイヌの人々の文化は自然と密接な関係を取り結ぶことにおいて成立してきたのだとの思いを新たにする。
⇒京の町家の改装例。これまた、いずれもこんな家に住みたいと思うようなものばかり。 後半は街並みそのものの保存・再生への挑戦である。つくば(茨城県)や高岡(富山県)などの例が紹介される。
⇒のだろう。もっとも、このエッセイでは大酒を飲みながらも、冷静であるし、自己嫌悪に陥ってもいない。一緒に飲んだ人たちとの折り合いもよく、気持ちのいいお酒だったものと思われる。その上 「四升のお酒を、一滴残さず整理することに成功した」のであり、まずは平穏な日々を過ごしたのであった。
mituさん、おはようございます。詳しい情報をありがとうございます。たしかに虫歯と歯槽膿漏の予防にはなるようなのですが、主たる目的は美容にあったと思います。ほんとうに信じがたい美意識なのですが。
ヴェネツィアさん、おはようございます。この本の内容は美的感覚を中心に述べられていたのですね。しかも平安時代からとなると、よけいに美容が主に書いてある流れの中では、おはぐろは美意識の問題なのですね。了解致しました。
⇒中世の宗教画に、主題はもちろん、構図も(おそらくは技法も)酷似している。しかも、西方カトリック圏の宗教画はその後、ルネサンスを経て大きく変容していくのだが、東方教会のイコンはかたくななまでに伝統を遵守し続けるのである。
⇒多彩なドローイングを残してくれている。表紙はル・コルビュジエの「モデュロール」(ただし、これは1945年のもの)。実現しなかった建築も多いのだが、逆に言えばその分夢があり、SF的な空想の楽しみも多い。図書館にあれば、ぜひ御一読を。お薦め。
⇒やって来る。そして、それが大人の恋愛であり、不倫であるからには行き着く先は破綻である。『月狂い』においては古典的な心中死であった。それでは、現代における終曲点はどのようなものなのか。本篇はその小池真理子による解が示される。なかなかによくできた恋愛小説であった。
⇒帯びてきた」ということになるが、まさに見事に大岡昇平の文学の質を言い当てているだろう。大岡昇平は、戦地にいても、戦後の混乱期にも、一貫して理知の人であり続けたのである。
末尾では「読みかえしてみたら、甚だわけのわからぬことが書かれてある。しどろもどろの、朝令暮改。こんなもにでいいのかしら」などと開き直る始末。いいわけがないとは思うのだが、それでもこのまま掲載されたことからすれば、結局はこれでもよかったのだろう。
⇒現在はお店としても活用されている例もあって、これなら内部も心置きなく堪能できる。京都美山の旬季庵。なんと1702年(赤穂浪士討入の年)の建築である。今は料理旅館として活用されている。 山形田麦俣の「かやぶき屋」。こちらは兜造りの民宿である。最後にレトロ・モダンなビルディングを東西から。銀座の奥野ビルと北浜(大阪)の青山ビルである。
⇒巻末に用語集がまとめられているが、これだけ覚えなければいけないのかと思うと、気が遠くなるほどである。もっとも、建築史、あるいは建築美学等以外では必ずしも必要のないものかも知れないが。
⇒唐突に過ぎるだろう。一気に解決に向かうパッションと、地味すぎる物語に動きを与えたのだろうが、犯人のそれまでの行動との間に齟齬が生じてしまうだろう。10年前の事件の真相解明も同様である。今日子を配したエンディングは明るい曙光が射したようで清々しい。
末尾の一文「ふと気がつくと、いつの間にか私の背後に、一ばん上の姉が、ひっそり坐っていた」は、なんとも象徴的な表現であり、この時、太宰は母親の死を覚悟したか。
⇒古くから伝統製法で作られてきたようだ。種類も八丁味噌、三州味噌など独特のものを持つ。最後は三重だが、ここも沿岸部と山間部では大いに違う。志摩海岸には「さはち料理」があり、これは高知にも見られるが、関連はあるのだろうか。
⇒送り返す儀式である。何本も花矢を射かけた後、本矢で射、レクチヌンパニ(圧死棒)で息を止める。後日祭では、皮を剥いだ頭部が飾られ、その日も終日、神事が行われる。残酷だといえばそうなのだが、これら一連の行事は神聖なるものであり、神に感謝し、自然の営みと一体化する儀式である。ひじょうに貴重な写真記録。
⇒ベルリンのフィルハーモニーホール、モントリオールのオリンピック競技場、パリのポンピドゥー・センター、ニューデリーのロータステンプル(初めて聞いたがバハイ教の神殿)など、まだまだたくさんの壮麗かつ先鋭な建築物が目白押し。建築物に興味のある人には強推薦!
一つだけ気になったのは、太陽系内の惑星の大きさ比較が、数ページにわたるためにわかりにくい。意外だったのは、天王星と海王星の大きさ。こんなに大きかったのだ。そして、冥王星は月よりずっと小さい。これでは格下げも無理はないか。
ヴェネツィアさん、最近の子どもは、わたしの世代に比べても、よくも悪くも科学慣れしているので、いきなりニュートリノでも大丈夫だと思います。むしろ、スマホの類を魔法の機械だと思わないためには、それくらいの知識が必要なくらいかもしれません。
さすがです。かの子は谷崎と同級だった兄の雪之助から伝え聞いていたようです。事実、一平は谷崎にかの子の小説の指導を乞うたのですが、谷崎は等閑に付しました。私にとっては、かの子は歌人としての存在感の方が大きいのですが、もう少し長生きしていれば、小説ももう少し熟していたろうと密かに惜しまれるところではあります。瀬戸内晴美さんなども谷崎との関係性において近いものを感じます。
⇒想像力も要求される。読者の興味や関心の在り処によるだろうが、私はヴェルフリンやヴォリンガーといった美学の領域が懐かしくもあり、また「政治と建築」に如実に表れる"建築様式"の項目が一番了解しやすかった。
能登のいしり(イカの魚醤)、いしる(イワシの魚醤)は一度金沢で買い求めて以来愛用していましたが、震災以降欠番、復活を待ち望んでいます。白山麓の温泉宿で昔熊汁を戴いたこと、懐かしく思い出しました。臭みもなく体がぽかぽか温まって、豊かな食文化を堪能しました。伝承、とあるので対象は過去のものなのでしょうか。もういちど食べたい献立です。
ふうさん、「いしり」、「いしる」はよくできた伝統調味料だと思います。私は最初、おみやげにいただいて知りました。熊汁は食べてみたいものです。なお、この本は2006年の初版なので、それほど過去のものというわけでもないようです。もっとも、こうした食材、調理法を今も日常的にということはないように思います。
本書は取材のセンスも絶妙で、中に「古民家解体ドキュメント」や再生の成功例も様々なタイプを載せている。さらには「古民家再生Q&A」から、古民家再生に取り組む設計事務所・施工会社・古材店・古材家具・古民具店のリストまであって、もう至れり尽くせり。後は先立つものだけあればいいのだけれど…。
⇒間に芽生えた禁断の恋がせつない。東側では、オリガのひたむきさが哀れである。結末の描き方がまた大きく新人離れしている。最初のページから最後まで読者を捉えて離さない求心力は見事である。推薦!※作者の名前のラーラ(ドクトル・ジバゴのヒロイン)は本名。まさにこの作品を書くためにあるような名前だ。
もう一つの夏野菜として、なす。これも全国各地にいろんな郷土料理として用いられている。賀茂なす(京都)、巾着なす(新潟)など、地方特有のなすも。初めて見たのは伯方町(愛媛県)の「イギス豆腐」。最初はイギリス豆腐と誤読していて、どんな来歴かと思ったら、イギスだった。イギスは瀬戸内海の岩場で採れる海藻らしい。
最後に置かれた「ぬりえをしよう」と「いのくまさんはたのしいな」では、彼の作品が子どもとの接点を最後まで失わなかったことがよくわかる。そうした子どもの視点を持ち続けることができた人だったのだろう。なお、丸亀市に猪熊弦一郎現代美術館があり、ここで現物を見る事ができる。
⇒に発表され、7月には単行本『女生徒』に収録されることになる。その後は順調に執筆もはかどった様子である。『富嶽百景』の評判も上々のようで、まずはメデタシメデタシ。
山梨生まれですが子どもの頃、蜂の子は知り合いが持ってきてくれました。父は食べていたけれど母は食べていなかったような?私も食べられなかったです。 上野原に長寿館ってあるらしいですが、私の中ではみんな味が濃くてしょっぱいものを好んで食べていた記憶しかないので、長生き出来ないイメージ💦 https://yuzurihara-village.com/
⇒である。無神論者と修道院とは本来は相容れないであろうに、お互いに何としたことであったろうか。カトリックは時としてと、思いがけないくらいに大胆なことをする。この修道院の建築を無神論者のル・コルビュジエに依頼したこともまたそうだ。その結果は…毎年多くの巡礼者がここを訪れ、ラ・トゥーレットは世界遺産になった。ル・コルビュジエのファン、あるいは教会建築に興味を持つ人には強推薦!
⇒マス目を埋めて片づけたいのがありありと目に浮かぶ。西鶴の『日本永代蔵』を長々と引用するのも(どうやら出典は主に「二代目に破る扇の風」だ)ずるいし、貯蓄に励むべきだと言っていたのが、本気はなかったのが語るに落ちている始末である。
⇒グーテンベルクの活版印刷術が発明されるまで。これはまさに画期的、革新的な発明であり、ヨーロッパ世界を大きく変えることになった。それは単に印刷術云々ではなかったのである。すなわち、みんなが聖書を読めるようになったのである(もちろん、ルターによるドイツ語訳があって初めて可能なのだが)。それは、また宗教界だけのことに留まらず、ヨーロッパ世界を根底から揺さぶっただろう。
サイズは小さいが図版は豊富。中には珍しい、マグダラのマリアが本を読んでいる絵(ピエロ・ディ・コジモ)なども。ひじょうに清楚なイメージで描かれていて、あまりマグダラのマリアらしくは見えないのだが、絵の左下隅にある香油壺がアトリビュートなのだろう。
⇒他に眼を強く引くものとして、サンティアゴ・カラトラヴァのミルウォーキー美術館新館があげられる。日本の建築家たちもけっして負けてはいない。それどころか、安藤忠雄や隈研吾など6人もの建築家(あるいは建築集団)が取り上げられている。6/27は凄い数字だと思う。なんとも頼もしい限りだ。
⇒記憶の不確かさを表象するものであるらしい。7つのなぞなぞと、その答えもまた謎に満ちているのだが。センダックの原点的な光景をうかがい知ることができる1書ではないだろうか。
⇒時あたかも昭和18年であるから、統制も厳しくなっていただろう。見方によれば、そうした政府の統制を揶揄しているともとれる。おかしさの極めつけは、末尾の酒屋でのシーンだろう。こうした軽妙な太宰もいいものだ。
⇒ここに紹介されているお料理は、すべて彼の手造りである。これまた、なかなかに見事な手腕。それぞれレシピと作り方の手順が付されているし、それほど難しいものでもないようだから、自分でも作れそうだ。
「貧しい女が貧困から抜け出すために、代理母になって何がいけない。国は何もしてくれないじゃないか」そんな叫びが行間から聞こえてくるような作品でした。それに対して、教養のある豊かな人が「そんなことをしては人の道に外れる。それでは臓器を売るのと一緒だ」と高見から言ったとて、リキのような女性は「そもそも臓器を売って何が悪いの?売れる臓器があれば私は売ったって良い」と言い返し、議論はいつまでも平行線を辿るでしょう。
⇒することによって、作家の自己が抑制されるからだろうか。なお、ここに描かれた夫は大きく戯画化された太宰自身の姿でもあるだろう。この作品は成功してはいるが、『女生徒』と比べるなら地味な印象は否めない。文末の「私は、王子さまのいないシンデレラ姫」のあの華麗さがここにはないからである。
⇒ベルと呼ばれている主人公には2人の姉がいて、この2人はベルをいつも馬鹿にしているのだが、ベルは心清き(しかも美しい)娘という設定であり、なんだかシンデレラを彷彿とさせないでもない。本作の成功はひとえに、ベルの相手が野獣であり、この取り合わせの妙が喜ばれたものと思われる。たしかに、スリリングでもあるし、野獣の苦悩やベルの逡巡など微細な感情表現も可能である。最後は、型通り魔法がとけてハッピーエンド。
⇒満ちている。彼の絵は象徴とメタファーに富むが、その源泉は神話的な世界からやってくるかのようだ。不思議という言葉ではとても言い表せないところに私たちも立つことになる。ショーン・タンのファンにも、また不幸にも(あるいは幸福にも)ショーン・タンに遭遇したことがない人にも強推薦!
私はなぜかこの短編は「主人公が焼き味噌を食べるシーン」が印象に残っていて、おそらく太宰は「わびしいイメージ」を込めたのではないかと思うのですが、私は「え!?焼いた味噌!?めちゃくちゃ美味しそう!!」と思いました。(文学作品を読んでいて食事シーンに惹かれることはめったにないのですが…。)
⇒独自の教義解釈を展開する。もちろん、ローマを世界の中心とは認めないし、パレスティナにこそ拘泥する。それでいて、時の教皇、ヨハネ・パウロ2世とも面識があったりもするのである。私たちは、この小説を読んで、すなわちこの小説の時間と空間をダニエルと共に生きたと実感する。
⇒どのように行っても恣意的であることを免れない。本書の最大の利点と功績は、広範な範囲からよくぞこれだけ図版を集めてきたということにありそうだ。詳しい論考は分量的に無理だが、図版は多くを物語るからである。表紙のブリューゲル「バベルの塔」は珍しくないが、初めて見る図版も多い。
この絵本は世界各国で翻訳され、話題になったようだ。また、イラストレーター協会賞ほか、いくつもの賞を得ている。どのページの画像もライティングが美しく、そのことも大きく寄与しているだろうと思われる。
ロバ、サル、ネズミそれぞれのフォルムもいいのだけど、強い色を用いないで、中間色でしっとりと語りかけるところが、この人の絵の特質。基調になっているのは、図書館の木目色だ。
⇒津村の顔を見る事が出来まい。地獄の底から、「ヘルプ!ヘルプ!」と叫んでも、もう津村も来てくれまい」は、なんだか哀切な響きを帯び(悲痛であるかもしれない)それは太宰その人の姿をも浮かび上がらせるのである。
⇒ユダヤ人なのだが、大戦中はゲシュタポの手先を務めていた。もちろん、それは彼の望むところではなかったのであるが。その後、彼はナチスに対する様々な抵抗運動に加担するのだが、やがてカトリックの神父になり、パレスティナの修道院に入る。そして、当然ながらこのことが大いに複雑化を招く。あるいは、見方を変えれば彼はシオニズムを客観的な視点から眺めることができる立場に立っていたということである。登場人物も多く、神学上の問題も孕んでいるために、かなりな程度に難解である。ともかく、下巻へ。
⇒ラ・マムーニア(マラケシュ)である。ロビーやレストランの意匠が実にアラビックなムードに溢れている。ここは、かつてチャーチル夫妻の愛用のホテルだったようだ。パレ・ジャマイ(フェズ)は、さらにオリエンタルなムードに溢れているかもしれない。ここに紹介されているものは、いずれ菖蒲か杜若といったところなのだが、泊まってみたいのはモロッコの上記2つのホテルだ(実現することはあるまいと思われるが)。
⇒などと想像の幅と奥行きが広がってゆく。なかなかに刺激的な本。また、バスク語やディビヒ語、シンハラ語など、言語学のテキストでかつて出会った懐かしい言葉があちこちに登場する。なお、インドネシア語のbesar, kecilのカタカナ語表記がベサル、ケチルとあったが、ブサ(ー)ル、クチルではないか。
ご指摘の通りbesarやkecilはeの部分を発音しませんね。なお、インドネシア人やマレー人と長く付き合った経験からするとインドネシア語(マレー語も)ではPとBの発音が曖昧です。アラブ語でもそう感じます。それが証拠に彼らは英語の単語のスペリングでpとbを時々間違えます。besarは私が聞いた感じではブサールないしはプサールと聞こえます。
グリムの『星の銀貨』は、かなり奇妙なお話。ハッピーエンドなのだが、そこにいたる構成に必然性が極めて乏しいのである。こんなお話を選ぶところも、すでにアーティストの嗜好が強く反映されているのだろう。
⇒あるように思う。本書に収録されているものは、造型が多いが、絵画やエッチングなども含まれる。第1章「私を見捨てないで」も結構なものだが、第2章「地獄から帰ってきたところ」は、かなりな程度にグロテスクである。第3章「青空の修復」では、中心となるテーマは蜘蛛である。巻末の「論考」、「年譜」ともに充実している。ルイーズ・ブルジョワを知るには格好の1冊。これ1冊で堪能というか、食傷というか…なのだが。
⇒ムーミンもいろいろとたいへんなのだけれど、パパもママも眠っている、こんな時だからこそムーミンには頼るものがなにもない。ようやく春になって、さてムーミンはこの冬で成長しただろうか。うん、きっとしたと思う。
2011年4月からの参加で、15年目にはいりました。一番よく読んでいるのは日本文学、次いでは翻訳文学です。読むジャンルの幅は広い(半ばは意識的にそうしています)のですが、何でも手当たり次第に読むというわけではありません。特に誇れるものはありませんが、連続読書日数は初日から5263 日(2025年9月2日現在)、冊数は8098冊になりました。胃癌で入院中も、海外旅行中も毎日読んできました。さて、どこまで伸ばせることやら。
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