
今月もどうぞよろしくお願いいたします。☆2025年9月の読書メーター 読んだ本の数:120冊 読んだページ数:20310ページ ナイス数:48986ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/157091/summary/monthly/2025/9
⇒真っ白になる。このあたりの描写も冴え、読者もまたま白き富士を仰ぎ見るかのごとくである。沼津の町は大火で焼けてしまい、牧水が見たのは新しくなった沼津であった。彼は懐旧するのではなく、新しい沼津をむしろ清々しいものと見ていたようだ。
⇒時にはシックでもある。モデルとしての代表はやはりカトリーヌ・ドヌーヴだろう。ただ彼は、有色人種のモデルをも採用した最初の人でもあった。ナオミ・キャンベルや川原亜矢子などがそうである。スタイリングも優雅だが、同時に彼は色彩の魔術師ともいうべき存在でもあった。本書の後半は色彩別に作品が並べられているが、彼の青もローズピンクも黒も、ため息が漏れるほどに美しい。私は残念ながらネクタイしか持っていないが。
かれには「よくひとりぼっちだった」という前著があります。ずいぶん大昔。本人に会ったことあります。時代にズレたというより「今もこれ使うの?」という感じの、恐ろしく音のいいアナログシンセサイザーを使ってました。i-morleyで河野麻子さんが相方の頃だから2008年頃だったか? しれっとがっつりこだわってる人。
ヴェネツィアさん こんにちは! 此の素敵な本が共読本に一冊加わり、嬉しくレビューを拝読しました!🍀 北欧好きな私は、中でもフィンランド🇫🇮が一番好きです!💖 映画『かもめ食堂』のDVD鑑賞後は、更に好きに成りました!💫 何時も、私の知らない多分野の、良書のご紹介! & レビュー!や、何より既読数には驚くばかりです!😲 此れから、風邪やインフルエンザの流行る時季と成りますので、お互いに体調に留意したいと思います!✨ 何時も、有り難うございます!🙋 宵待草
宵待草さん、かもめ食堂は残念ながらなくなってしまったようですね。この前、NHKの「世界街歩き」でタンペレを見ました。フィンランドには行ったことがないのですが、行くならサーメの北極圏まで行ってみたいものです。
⇒そうとしか思えない。まず、一番最初に目に付くのが、主玄関のガラスに覆われたアーチである。これは昼よりも夜に照明が灯されると、一層に輝きを増す。ディテールもまた単なる実用を超えた凝りようである。それでいて、光を巧みに取り入れるのであり、全体として奇抜な印象でありながら、それに終わらない。
⇒によるジョドプールの城砦を仰ぎ見るブティック・ホテルには是非とも泊まってみたいもの。スパなどはまるでアラビアンナイトの世界だ。※WOHA―ウォン・ムン・サムとリチャード・ハッセルが創設した建築デザイン集団。
とん ことり はまだ手元にないので未読ですが、林明子さんが文・絵ともに担当されている作品は子供独特の現実と空想の境を表現された絵本が多く私はとても好きです。デフォルメされていないイラストも落ち着いた色彩も気に入っています。私はその中でも「こんとあき」という作品がとても良かったので、もし機会があれば読んでみてください。
ヴェネツィアさん こんばんは! 此の本はバウハウスの建築に付いてですので、、、少しずれたコメントでごめんなさいね!🙏💦 竹久夢二がベルリン滞在時に、バウハウスのマイスターの一人、スイスの画家ヨハネス・イッテンとの関わりで、イッテンが開校した学校で、日本画の講義や指導をしていました。 滞在時に描いた『水竹居』は文京区にある、竹久夢二美術館に所蔵されています。 ヨハネス・イッテンの『色彩論』は名著で、私も若き日に既読しています。 ヴェネツィアさんの、広範囲の多分野の読書には、驚くばかりです!💫 宵待草
⇒拡張といった意味を持つだろう。ただ、一方ではそのことによってスピーディな展開は幾分犠牲になったかもしれない。後半は一気に加速するが、終幕部は幾分唐突な感がしないでもない。また、次作への含みを大きく残していることもあって、今作は繋ぎの巻ということになりそうだ。
⇒の製作。木でピアノの本体と鍵盤等を作るのはいいのだがこれだけでは音は出ない。ピアノの弦やハンマーなどの内部構造を全く考えないのは、子ども向けだけに余計に変だ。
興味深く感じ、早速読了。〜女性は創造しない〜!?太宰にぜひ令和の女流作家の活躍を見てもらいたい。批判はともかく、「女生徒」を読んで以前感じたのは太宰の中に潜む女性的なもの。なりきって書く、という秘法ではないかな?余談ですがドストエフスキーの女装、写真が残っていたら見てみたいですね。
⇒を継ぐことになる。途中まではクレウーサの悲劇かと思わせるのだが、彼女の葛藤はアテナイによって容易く解消してしまう。近・現代劇であれば、クレウーサにイオーンを毒殺させると思われる。そうすれば、彼女は二重の苦しみに陥ることになるからである。ソフォクレスの『オイディプス』などと比べると、随分甘い結末である。主眼がイオーンとクレウーサの悲劇を描くことにはなく、都市アテナイの来歴を語ることにあったかと思われる。
⇒物語そのものは人口に膾炙していたのである。そこで近松は、「五十年忌」と銘打ったのであった。年忌興行である以上は、何らかの形で、主人公の清十郎とお夏を救済せねばならないだろう。そこで、近松が登場させたのが勘十郎と源十郎という2人の敵役であった。それはともかく、そのために近松は清十郎に殺人という実事件や西鶴にもなかった大罪を犯させる矛盾を自ら抱え込むことになったのである。結末部の不自然さも覆い難いし、欠点が随所に見られるのだが、趣向あるいは劇としては面白い。
⇒建屋自体を支えているブラケットなどは意図的に誇張され、あえて不安定な感じを見るものにもたらしている。なお、この博物館はロスアンゼルスのダウンタウンの南郊のエキスポジション・パークにあったのだが、どうやら手狭になって現在は別の場所に移ったようだ。
⇒いるが、関西のそれと東北のそれとは大きな違いを見せている。一方、オノマトペは東北の人たちの方がずっと使用頻度が高いそうだ。宮沢賢治の作品にはオノマトペが多く見られるが、あれは賢治の特質でもあると同時に東北の人らしい特質でもあったようだ。今まで、あまり意識することのなかった事柄であるが、これを読んでなるほどそうだったのかと納得することも幾つかあった。
私自身は大阪の出身(もう離れて長いが)なのだが、その私が驚いたのが社会社人同士の挨拶の会話(両方とも男性)。「まいど(毎度)」「まいど」「まいど。おいど(お尻の関西方言)」。その時は、私には会社勤めはできないと思った。
⇒個性的な町が「オレンジフラッグ」に指定されているというのも初めて知った。公共交通機関では行きにくそうな所が多いが、その価値は大いにありそうだ。例えば、このメルカテッロはフィレンツェからアレッツォまで電車で行って、そこからバスで2時間。バスの本数も少なそうだ。でも、行ってみたい町である。他のオレンジフラッグの町も注目したい。
古民家って昔の大家族(女中や下男など大勢の人)がいて、隣近所の人とのつきあいがあるから成り立つのであって、電気やガスがあっても都会から若い夫婦が移り住むには苦しいですよね。都会の人は田舎に幻想抱きすぎ
⇒もう1つ驚いたのがヴェネツィアの「プンタ・デラ・ドガーナ」である。これはサン・マルコ寺院を対岸に臨むサンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂の突端に建てられたギャラリーである。こちらは全くヴェネツィアの景観に溶け込んでおり、外観からは斬新さが見えない。そこが実はすごいことろだと思うのである。
⇒現代建築かというと、それは大いに疑問である。19世紀建築としても古めかしいくらいである。表紙写真からも、全体の意匠がなんだか中世めいているのがわかるだろう。
⇒日本橋に両国橋。また、町のいろんなところから富士の姿が望見される。こちらは多数の浮世絵が残されているが、黄表紙『金々先生栄華之夢』に「ぎょうにお江戸は賑やかだ」の台詞があるが、まさにその通りである。
⇒ヘアスタイルや化粧法も含めて、連続した文化の国には見えないほどである。それに続く春闘と労働争議の写真群も今はもう見られない光景である。炭鉱の閉山、エンタープライズの寄港。さらに断絶を感じるのは北朝鮮への帰還船の出港風景(1971年)である。浦山霧郎の『キューポラのある街』にも登場していたあの光景の実写である。
⇒主にこれを担ったのは、江戸の講釈師たちであった。やがて演劇の新国劇、そして映画がこれを受け継いで行くことになる。本書は、かなりたくさんの一次資料を写真版で紹介。索引も充実している。もちろん、歴史民俗博物館に行けば、それらの現物を見ることができる。
⇒商圏も経営規模も広げていった。今では、世界中の大都市の一等地にルイ・ヴィトンのメゾンが鎮座する。文字通りの老舗でありながら、新しい。なお、本書は558ページ、重量が3.85kgもある が、ルイ・ヴィトンを語るには、やはりそれくらいは必要か。
疎開先で1年余りを過ごし、敗戦。子どもたちは都会地に帰郷したのだが、中には元の家や街そのものが廃墟と化していた場合も少なくはなかった。ことに広島などは、町中が廃墟同然であったし、多くの人たち(子どもたちの親もまた)が命を落としていた。それは、東京や大阪でも同様だったのであり、『火垂るの墓』が描く世界はけっして架空のものではない。
⇒とってもユニーク。しかも、おそらくはそれぞれの地で暮らす上では、最も快適な合理性を持っているのだろう。残念ながら実見したものは一つもないが、写真だけでも十分に楽しめる。
⇒人たちやお店にはそれはマイナスにはならないのだろう。いくつものサンプルが掲載されているが、中でも徳島市のAQA CITTAは、極北である。こんな工場そのもののような倉庫でも大丈夫?
⇒解説文、写真ともになかなかの充実ぶり。新潮版よりも詳しいだろう。本書は(このシリーズは全て)大判サイズでずっしりと重い。意地悪な見方をすれば、これは書斎もしくは応接間の飾りとなることを意識した造本なのではないだろうか。
⇒気配が濃厚。間違いも散見され、実用性は疑わしい。カラー図版も多いのだが、これもページ稼ぎといった感がなきにしもあらず。私は図書館から借りてきたのだが、これで頒価3000円はいささか高いのではないか。
数千億の星を擁する銀河が数千億あるのだから、どこかに生命がいてもおかしくはないが、宇宙誕生から130億年という時間の中、同じ「今」という時に存在するかは。だそうです。
⇒敷地内の高低差を巧みに活かして、時に流れ落ちる段差を形成したり、泉となったりと変化に富んでいる。キューブ状の各研究室は、扉や窓には木が用いられ、コンクリートの殺風景感を緩和するのに大いに役立っている。
⇒「興覺め」と「一生懸命」である。というか、他者の一生懸命が彼にとっては興覺めなのである。そうとうに身勝手といえばその通りだ。不満ながらも10日もここに滞留し、「家の者がお金を持つて、この宿に私を迎えに来る」のを泰然と待っているのであり、「家の者にはこんな温泉宿でも、極樂であるかも知れぬ」などと言うのである。本当にしょうがない人だ。
ただ、幾分気になるのは、ここに描かれるアメリカがあまりにも安全であること。深夜のバスディーポなどはかなり危険だと思うのだが。彼女たちは全く恐れることなく(ということは安全への配慮には欠けるということだ)グレイハウンドバスで移動し、深夜便をも厭わない。大丈夫かなあ。江國香織さんは、この作品のために取材旅行をしたかもしれないが、よもやグレイハウンドバスではなかっただろうし。
⇒(やや肯定的に見える)少なくても考えるための材料は提供してくれている。また、セラミックスやプラスチックの項目などは、私の想像をはるかに超えており、そうだったのかと瞠目。
⇒というのである。しかも、末尾あたりでは「ウソばっかり書いたような気がします。花江さんなんて女もいないし、デモも見たのじやないんです。その他のこともたいがいウソのようです」と告白する。それに対する作家の返事は「気取った苦悩ですね」と、そっけない。ただヒントのように『新約聖書』マタイによる福音書10章28節を引用する。全体は空虚感に満ちた小説である。それは何かに対する苦悩ではなく、もはや何に対するものでもない漠然とした苦悩であり、空無感である。
おはようございます。ご存じかもしれませんが最近文春から「昭和100年の100人」(4部作)文化人編、スター編、政治家編、女性編というのが刊行されましたよ。失礼いたしました。
⇒なのであるが、それが小説に奇妙なネジレと増幅とを生じさせる結果になっている。あるいは、それはこの時の太宰の苦し紛れの状態こそが生み出した作方であったのかもしれない。
⇒この隔壁は、彼女には悲しみをしか残さない。末尾のエピソード「私たちのしあわせは、所詮こんな、お部屋の電球を変えることくらいのものなのだ」は、哀切にも美しい。
⇒の窮地を決定的なものにするとがわかっていたのにである。中之巻は、もはやどうにもならならなくなった場面なのであるが、それにしては徳兵衛による「生姜」の チャリがあったり、お房の「炬燵責」といった珍しい趣向が展開されるものの、劇的緊張は高まらない。いよいよ行き詰まった下之巻は心中行だが、お房を刃にかけた 後、迫りくる追手(徳兵衛を案じ た妻のお辰等)に周章てた徳兵衛は井戸に落ちて絶命する。「井筒屋」と「井筒」(井戸)の洒落のような終幕である。ただ、悲惨さはこの上ないように思う。
⇒である。夜中の12時までいそいそと校正する太宰の姿は微笑ましくもある。たまにはこんなこともないと。なお、同時受賞の上林氏というのは、上林暁のことであろうと思われる。
⇒あまり変わり映えがしても困ることになる。鉄道駅(とりわけターミナル駅)もそうだが、空港にも独特の旅情があって、それが旅の醍醐味の一つでもある。これまでに利用した空港にも様々な思い出がある。行き先表示がなかぬか出ないために乗り遅れそうになったこともあるし、海外の空港で思いがけない人に出会ったりしたこともある。
⇒通うことになるのだが、事務所にいた十人ばかりの女の子(原文のママ)の中に一人だけ「際立った美しさ」の子がいた。それは実に不思議であったが、工場からみんなが帰るときに太宰はその理由を知ることになる。整然とした画一化の中にあっての唯一の異質さ、太宰の見いだした「美」の秘密はそこにあったのである。
若い頃はへーラーのことは鬼嫁としか思えませんでしたが、よくよく考えてみると余所に子供つくりまくりのゼウスの方がどうかしてると気がつきました。いや、でも鬼嫁は鬼嫁だよなあ。
Masaさん、ここでもヘーラーは、ヘラクレスを狂気に陥らせ苦しめるのですが、ヘラクレス自身には罪がないのになんと理不尽なと思いますが、その理不尽さこそがまさに神々たる所以でもあるのかと。
⇒置いて、神は「アッラー」の唯一絶対神であり、紛れもなく一神教である。また、28人の預言者が存在し、そのうちの21人までは聖書にも登場し、イエスもまたそうである。すなわち、イスラム教の側からすれば、ユダヤ教もキリスト教もともに啓典の民なのである。本質的には互いに不倶戴天の敵ではないのである。
⇒読む私たちがそのように受け止めるのか、どうも勝った(そして漢を築いた)劉邦よりも、散っていった項羽に心が傾くようである。虞美人の哀れと項羽の壮絶な人生が幕を閉じた。感無量といったところか。お薦め。
⇒ないかという気もする。もう言いたい放題なのだが、太宰はこの一文に題して『天狗』とつけている。末尾の一文が「ゆるしたまへ」なのだが、それ相応の自信もまたあったのだろう。
⇒これなどはアラビア風の建物であり、とても1914年に日本において建てられたものとは思えないほどである。この巻の全体を通して、私たちが感受するのは建築における「贅沢」である。それはモダニズム以降は絶えて喪失した、ある種の幻であったかのごとくである。
⇒母たちの嘆願は実を結ぶのであるが、劇の全体を貫流するのは、母の子を思う嘆きであり、これがひとしきり語られることになる。戦争における母の悲劇の持つ普遍性は、その後も形を変えながら何度も何度も文学に登場することになる。
⇒反則技である。もちろん、自分でも分かりすぎるくらいによくわかってやっているのである。なお、『右大臣実朝』は、太宰の畢生の出来。「明るさは滅びの姿であろうか」など、随所に際立った表現が見られる。
⇒並ぶ、というよりは目白押しといった感を呈する。まずは「自然観察ボックス」(表紙写真・ドヴレフェル国立公園=ノルウェー)。この木をくり抜いたようなスペースの中から、大自然を観察するのである。まさに雄大、悠久の自然の中に一体化する。Harads(スウェーデン)のバードハウスもユニーク。山林の中に面白い建物が点在する意匠。大きな鳥の巣に擬態した客室や、UFOの出現かと見紛うような建物。これはなかぬか凝っていて、宇宙船のようなハシゴが付いていて、これで樹上のブースに入るのである。気分はもうE.T.である。
⇒「私はこの好色の理想のために財を投げ打ち、衣服を投げう打ち、靴を投げ打ち、全くの清貧になつてしまつた」というのである。これを「ロマンチシズム」と名づけているが、これでは西鶴の世之介である。もっとも、世之介も好色の理想に殉じたのではあったが。ここから語られる芸者との顛末は通俗の極みであり、掲げられた理想という言葉からは限りなく遠いのだが、そこがまた太宰の太宰たる所以でもあった。そんな作品である。
田辺聖子『欲しがりません勝つまでは』(ポプラ文庫ほか)が、当時の子供の心情を知る参考の一つになるかもしれません。絶版らしいけど、古書がまだ出てます。
⇒がほとんどである。そして、それこそがこの地域の持つ最大の魅力でもある。北イタリアの諸都市(フィレンツェやヴェネツィア、ミラノなど)のような歴史的建造物が豊富にあるわけではないが、密やかな迷宮都市が散在するようだ。
⇒村や街は、そして自分たちのいた所は戦場だったのである。あれから今年で50年が経過した。もちろん、まだ傷跡はあちこちに残るだろう。少なくてもベトナムの人たちはあの戦争を風化させてはいないはずである。
ヴェネツィアさん、バリいいですね。(行きたい!)アジアの少し埃っぽいけど湿り気のある広々とした農村は、ほっとしますね。のどかなナイトマーケットで、娘(18才)が現地の女の子を見て「渋谷の女子より素敵だ、、、。」と言ってました。
タイトルの『千代女』は、作中末尾の加賀千代女のエピソードから採られたものであるが、「私は千代女ではありません。何も書けない低能の文学少女」の韜晦からすれば、この時期の太宰はそうとうに落ち込んでいたのだろう。
⇒しいて言えば、最後の復讐劇の部分に無理があるかも知れない。今や奴隷の身となったヘカベーにそんなことが可能であったかとの疑問も無きにしもあらずなのだが、そうでもしなければ観客のカタルシスが収まらなかっただろうと思われる。
⇒既にこの風格。さすがはトラだ。でも、まだ幼いツキとシグレの丸いおヘソが可愛い(ちょっとデベソ気味)。ネコ好きの人なら、たちどころにノックアウトされること必定。
⇒さほどまでに論じなければならなかったのだろう。いわば、戦後に突然のように流行しだした恋愛至上主義に対する反発であったのか。なお、最後の2つの結論―「片恋というものこそ常に恋の最高の姿である」と「恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗じるのは、げびたことである」―は、まさにその通りだろう。
⇒贅沢の極み。樹上にラグビーボール様の木で作られた空間にレストランのテーブルがセッティングされている(表紙写真)。一室に一組だけ。これが何室かある。設計者はピーター・アイシングとルーシー・ガントレット。他のものも斬新だが、利用するには、いずれもお金に糸目を付けない覚悟が必要。
アフリカのツェツェバエに、シマウマのシマが有効だと聞いてましたが、まさか牛にシマを付けて本当に立証をしたのが日本人ってのを、今年のイグ·ノーベルで知りました。牛さんもハエを追い払うのが少なくなったことで、精神的に安定したと聞いて、実際実行されるか微妙ですが、立証出来て良かったと思いました。
2011年4月からの参加で、15年目にはいりました。一番よく読んでいるのは日本文学、次いでは翻訳文学です。読むジャンルの幅は広い(半ばは意識的にそうしています)のですが、何でも手当たり次第に読むというわけではありません。特に誇れるものはありませんが、連続読書日数は初日から5263 日(2025年9月2日現在)、冊数は8098冊になりました。胃癌で入院中も、海外旅行中も毎日読んできました。さて、どこまで伸ばせることやら。
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