
タイトルは魅力的なのだが、P.D.ジェイムズの『女には向かない職業』の剽窃感は否めない。こちらは現代のほぼ直訳だが、本作の原題は"A Good Girl's Guide To Murder"にも関わらず、『自由研究には向かない…』としたために、内容とは齟齬を生じる結果になったようだ。
はや9月になりました。今月もどうぞよろしくお願いいたします。☆2025年8月の読書メーター 読んだ本の数:124冊 読んだページ数:16794ページ ナイス数:51343ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/157091/summary/monthly/2025/8
ヴェネツィアさん、こんにちは。今月に入っても暑い日が続きますね。今は、更に暑い、アフリカの独裁者文学を読んでおります。逆療法ですね。真冬の乾布摩擦みたいなものです。今月も、宜しく、お願いします。
人形浄瑠璃で「槍権三重帷子」を見たことがあります。鑑賞初心者だったためか現代から見て不合理としか思えない掟(?)がうまく胸に落ちず、いまいち消化不良だった記憶があります。
⇒その円周の外側にいる。時間軸もまた過去と現在とが時として混交する。アイデンティティを喪失しているわけでもない。新しい感覚の小説である。こうした小説による模索はまだ暫くは続きそうだ。
先週ドバイ空港を経由して帰国しました。確かに面白い建物で特徴的でしたが、使い勝手からするとあまり印象よくありません。あと、文化の違いなのでしょうが、床に直接座って休んでいる人が多くて、せめて荷物の上とかに座って~と思いながら見てました。空港機能は、旅行者がいつどこに行けばいいかがすぐ分かって、目的地(セキュリティやゲート)への誘導がきちんとしていることが最優先だと今回の旅で改めて思いました。
⇒そうした一連の作品に先駆するものであり、よりダイレクトな表現をとっていた。戦中に書かれた「粋人」(『新釈諸国噺』所収)では、戯画化されていたが、これがさらなる先駆であったかもしれない。「家庭の幸福諸悪の根源」と言い、芸術のためなら、敢えて妻も子も犠牲にする「私」(太宰)。この姿を肯定できるかどうかが、あるいは太宰文学の「踏み絵」である。
ヴェネツィアさんこんばんは。映画「宇宙戦艦ヤマト完結編」に、神殿をもった超巨大宇宙基地「都市衛星ウルク」というのがでてきます。ネタバレになるので書けませんが「ああ、命名はそういうことか、だからウルクなのね」と納得いたしました。失礼いたしました。
ヴェネツィアさん、南イタリア🇮🇹、良いですね♪ ヨーロッパに旅行に行かれるということは、健康状態は悪くないということでしょうか。私は来月姪の結婚式のために今年2回目の日本に行きます。イギリスに続いて家族中心の旅なので、あまり旅行という気持ちはしないのですが。
Johnnycakeさんは日本ですか。私は今はどうやらコロナの後遺症で(検査では陰性だったのですが)嗅覚がないのですが(もう1ヶ月以上になります)、それ以外は健康です。早く嗅覚異常が治ってくれないと、食べ物が美味しくありません。
以前に深海魚ブームが来ましたよね。その時メンダコやダイオウグソクムシなどのぬいぐるみが流行ってました。深海魚はグロテスクなものが多いですが、メンダコはちょっと可愛いですよね。😸
⇒行くだけである。もちろん、それでも大いに楽しめるのであるが。とりわけ、終盤のたたみかけ方は実に堂に入ったもの。しかも、エンディングはなかなかに感動的でもある。さらには、ちゃんと次作への含みも残されている。エンターテイメントとしては、お薦め。
タイトルは魅力的なのだが、P.D.ジェイムズの『女には向かない職業』の剽窃感は否めない。こちらは現代のほぼ直訳だが、本作の原題は"A Good Girl's Guide To Murder"にも関わらず、『自由研究には向かない…』としたために、内容とは齟齬を生じる結果になったようだ。
⇒実に巧みに活かしながら、小説に仕立てていく。呉王廟のくだりからの変身譚の鮮やかさは他に類を見ないほどに鮮やか。恬淡とした結びの妙も、大陸的でありつつ、太宰の姿がそこに見える。
⇒どうやら、こうしたギリシア演劇を鑑賞するためには、広範な知識(古代ギリシア史とギリシア神話)が必要なようである。また、神々と人間との間の境界の低さも了解する必要があるだろう。
本書は小学校高学年くらいからなら十分に読めるし、考えることができる。ここから出発するなら、ごく身近なところにも野生生物はたくさんいるし、夏休みの自由研究の材料にも事欠かない。シリーズを通してお薦め!
⇒かのごとく、よく見える。あたかも博覧会場を訪れた趣きである。2階と3階とがオフィスになっているが、中央に大きなスペースを取ったエスカレーターがあり、周囲に配された植物とだ醸し出される景観は高級ホテルのようだ。
私は太宰が思うほどに『ダス・ゲマイネ』が傑作であるとは思えない。もっとも、現代の批評家たちの評価は高いのだけれど。作家の思いと、世間の評価が一致しないのは致し方ないところ。スタンダールなどは、はじめから諦めて50年後に評価を委ねたという。
⇒そのまま進行してゆく。さらには、イオラーオスの戦場での働き(神意によって一時的に若返る)によって、アルゴス軍を撃退した後に、またしてもアルクメーネー(ヘラクレスの母)が登場し、話をややこしくさせるのである。エウリピデスは劇としての収斂性ということを考えなかったのであろうか。
⇒安藤忠雄のフォートワース現代美術館(テキサス州・表紙写真)である。他のものも、いずれ菖蒲か杜若、目移りすること必定である。これらの美術館は、それ自体を見るために旅をするに値する傑出した建築群である。また、美術館の設計を任されるなんて、ほんとうに建築家冥利に尽きるであろうと思われる。
⇒旅の境遇にあった。その意味では、流離の物語なのだが、説経とのあまりの違いに戸惑うのである。折口の庶幾する身毒丸、もしくは高安長者伝承の本質がここにあるのだとすれば、何とも難解な提示の方法である。
⇒抱える政治問題も大きく影を落としている。すなわち、民主党(極右政党)の伸長とネオナチの台頭、排外主義の広がりである。カミラ・レックバリは、それを大戦中のスウェーデンにまで拡張して描き出した。ちなみに、大戦中のスウェーデンは中立国であったのだが、そこには様々な事柄もあった。
本書は、基本的には警察小説なのだが、登場人物たちを実に丁寧に描いてゆく。今回は、いつもはオジャマな署長のメルバリが、自身でも思いがけない役割を担うことになった。シリーズとして読む楽しみも多い。
ヴェネツィアさん、デキショナアリヨムなんてラテン語ないよなぁ、と辞書を確認したら、やはり思ったとおり、ギリシャ語由来の Lexicon でした。ちなみにイタリア語ではラテン語 dictum (dicere、言う、の過去分詞)から Dizionario といいます。
⇒それを救済するのが和泉国の乙姫であり、清水観音であった。また、結局それは果たされることはなかったが、「違例」の治癒のために、しんとく丸は一旦は熊野湯の峰に向う。また、女性による救済という点でも、『をぐり』と共通点を持っている。なお、この語り物は後世の表現者を刺激するらしく、菅専助・若竹笛躬の浄瑠璃『摂州合邦辻』や折口信夫『身毒丸』、寺山修司『身毒丸』などが生み出された。
⇒設計も共通する要素である。それは同時にフレキシビリティの確保でもある。透明感に満ちた、この美しさはケンブリッジの景観を損なうことなく、それでいて建築の現代をさりげなく主張する。
⇒によっては、印象派を見る視点で見ることもできそうだ。この地域には、ブリューゲルやメムリンク、そして何よりもヘントのバーフ大聖堂かが有するファン・アイクの『神秘の子羊』がある。その後に小林が立ち寄ったイタリアにしてもそうだが、彼の関心はルネサンス絵画にはあまり向かわなかったようだ。時代の空気もあっただろうと思われる。
子供はストーリーを追うより、感覚的なものとして体験しているのではないでしょうか。大人が鑑賞するのとは随分違うと思いますね。そういった意味では、ヴェネツィアさんが飽きてくるのも仕方がないかと。
⇒ようやく「男女同権」に話が及ぶのだが、普通は(まして民主主義が声高に喧伝されたこの時代)女性の権利拡張が語られるものと誰もが思う。太宰はそれを逆手にとって、老詩人がこれまでいかに女性たちに虐げられてきたかを面々と語る物語に仕立てたのである。あの前置きは、このピントの ズレかたのための伏線であったのかと思ったりもする。結局、終わってみれば、何のことはない。太宰にうまくはぐらかされたようなものであった。
⇒その原因をヒッポリュトスが自分の寝所を侵そうとしたとの遺言を残す。ヒッポリュトスは、父のテーセウスに追放され、その呪いのもとに死ぬことになる。最後には、ヒッポリュトスが敬愛していたアルテミスが登場し、誤解は解けるのだが。人間は、いかに高潔であろうとも、神々(この場合はアフロディテ)に憎まれれば、どうにもならない。ヒッポリュトスとパイドラーのそれぞれが抱える葛藤も所詮は人間のそれに過ぎない。ある種、運命論的な世界観であるとも言えるし、ギリシア世界の壮大さの隠喩であるともとらえられるか。
⇒見られなかった、全く新しいタイプの明るく開放的なレストランを作り上げたのである。テーブル・セットに箸が置かれていなければ、およそチャイニーズ・レストランには見えない。しいて言えば、バーラウンジに見えるだろうか。2店目がZenセントラル、そして香港、モントリオール、Now and Zenへと展開していくにつれて、リック・マザーの設計も更に大胆さを増していくのである。
あさん、ご紹介の記事を拝読。これは、ジャングルで行方不明とかって記事も怪しいなあ。でも、取材というか話くらいはまあまあ訊いてたんじゃないかと。ジャングルでは跳弾が怖いとか米兵の言ですが、これくらいは酒の席で喋るだろうし。本当のトコロが三割くらいでしょうか。あとは妄想で書いたと。それにしても、ここで実話にぶつかるとは思ってもいませんでした。それこそ、めちゃくちゃ面白いノンフィクションを読んでいるようで素晴しかったです。改めて、あさん、ヴェネツィアさんありがとうございました。
⇒ごとに、例えば本館外壁なら、それと関連する意匠として、マルセイユのユニテ・ダビタシオンやラ・トゥール修道院のそれらとを比較してゆくのである。ル・コルビュジエのスタイルがどんなところに表れているのかがよくわかる解説である。しかも、パーツごとに見ていくので、実際に見学する場合にも、どこに着眼すればいいのかが示されるのである。後半はル・コルビュジエをもっと知るためのあれこれ。
⇒そうであったとしても、その融合具合は、をぐりの剛と照手姫の優、をぐりの蛮勇と照手姫の限りない慈しみと見事な対照を示しつつ物語を醸成する。秋の一夜、しばし中世の物語に身を浸すのも一興かと。お薦め。
⇒殺してしまうに至る経緯もまた、いささか整合性に欠けるようである。結末の収め方にも工夫がない。太宰の若き日の習作と見なすべきか、それとも戯れ文とするべきか。
⇒続いては、装飾品やバッグなど。そして、ジュエリー。これもなかなかにゴージャスなもの。"Luxury is not the opposite of poverty,it is the opposite of vulgarity"―これもごもっとも。最後はフラグランスと化粧品の数々。シャネルのトータルな魅力を余す所なく伝える1冊。
⇒その父であるクレオーン(コリントスの王)も殺害するのだが、イアーソーンを殺すには至らない。直接の関係は当然ないのだが、近松の『出世景清』が似たような物語(ただし、それが物語の全体ではない)である。景清と2人の子どもまでなした阿古屋が、その最愛の子どもたちを自ら手にかけなければならなくなる。しかも、そのことの背後には景清の正妻となる小野の姫(熱田神宮の神官の娘)がいたのである。もっとも、阿古屋は景清に復讐することなく死んでいくのだが。
⇒あるいはそれは一場の儚い夢のようなものに解消しかねないからである。もちろん、回想であった場合にも解釈の余地は大きく残るし、そこに浮かび上がるのは、まさしく小説空間である。太宰による女性の一人称語りは、いずれもハズレがない。
⇒放浪するのであるが、町々の喧騒や彼女自身の職業体験などが、ダイレクトに(少なくてもそう見える)語られる。私たち読者の視点がそこに重なり、その時代の持つリアリティを享受するとともに、彼女の感性にしだいに同化してゆくのである。
⇒だろうからである。資料もたくさん掲載されているが、例えば「日本少国民文化協会」制定の『愛国イロハカルタ』。「イセノカミカゼ テキコク カウフク」という調子が続く。
⇒安寿がまさに、その語られるべき「御本人」のその人である。ただ、ここでも混淆が生じており、彼女が保持する金焼地蔵が奇跡を起こす物語なのである。ただ、物 語の本筋は、むしろ、つし王の奇跡と復讐にあった。こうした、一見混乱とも見える要素が渾然一体として存在することは、むしろ中世的なあり様として享受すべきであろうと思う。
⇒稼ぎに見えてしまう。私のような「スレた」読者はたちが悪いのである。もっとも、最後は女の人からの手紙のエピソードで締めくくられており、ここは流石に小説らしい締めくくりになっている。最後がキマって太宰もホッとしたことであろう。
⇒カラヴァッジョの軌跡は、そこから南下して、ローマ、ナポリ、シチリア、再びナポリ、ローマを経て、ジェノヴァで終わる。38年の駆け抜けていくような生涯だった。彼の絵は縁の地をはじめ、あちこちに点在するが、一番たくさん残るのはやはりローマだろう。いずれの作品も、これこそが「バロック」であることを顕著に示している。
⇒十分なのだが、末尾の表現にどうも引っかかるのである。「逢って、私は言いたいのです。一種のにくしみを含めて言いたいのです」と語り、「あの時の乞食は、私です」と結ばれるのである。何もかも投げ捨てるような気持ちで、ほんとうは帰るに帰れないはずの故郷に向かう絶望的な自己の姿の表象であったのか。
⇒これ以降、先に上げた以外にも世界の各地に安藤忠雄の建築は増えていくのだが、私が特に注目するのは、まずフォートワースの現代美術館である。これは水と光の相乗的な美が織りなす建物なのだが、ガラスの壁面に縦軸の桟を加えることによって、一層に光の効果が上がるのである。ベルヴュー(アメリカ)の森の教会もまた素晴らしい。チャペルの十字架の美しさは比類がない。トレヴィゾのFABRICA(ベネトン・アートスクール)も、よくぞここまでと思う。国内の作品群よりも、あるいは一層に自由かと思う。
⇒読後感である。思うに、星新一の小説作方は、終わりの部分が最初に着想され、そこから遡って物語を組み立てていくのではないだろうか。同工異曲のものも多いのだが、それでもこの世界観に暫し遊ぶのもまた無上の楽しみである。
⇒アドメートスと父のペレースとのやり取りなどは、アドメートスのエゴイズムばかりが目に付くということになるだろう。劇の後半はヘーラクレースが冥界の入口からアルケースティスを奪い返してくるなどと、奇妙な展開を見せる。神のなすことは人智では測り難いという結論は、さてどのように受け止めたものか。
⇒いずれも、身体の線に柔らかに寄り添うようなラインを構成する。けっして、締め付けたり、肩ひじを張ったりしないのが最大の特徴である。それこそがエレガンスのエレガンスたる由縁であろう。
⇒することで新たな活用を図ろうとする試み。京都・蛸薬師のRatna Cafeなどがこの例だ。ここは京の伝統町家で食す本格インドカレーというコンセプト。また、驚いたのは、芭蕉句「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」と詠まれた丸子宿の丁子屋が今も当時のスタイルで営業を続けていること。
⇒どのような有機的関連性を持っているのか定かではない。おそらくは、この一見したところのアンバランスさも魅力のうちなのだろう。なお、表紙写真は屋根の一部。これだけでは、何のことなのか全く分からないのだが。
⇒文化的には大正浪漫の時代である。女性の地位もいささか向上したようだ。平塚らいてうや、柳原白蓮もいた。この頃、既に誕生していたものに、森永ミルクキャラメル、カルピス、銀座千疋屋なども。やはりなかなかにハイカラーな時代だったのである。
⇒してさえ、100万円はくだらないだろう。ロマネ・コンティにいたっては、もう想像を絶するだろう。結果は残念ながら、ロマネ・コンティは盛りを過ぎていたようだったが。女との情事もまた、豊潤で爛熟をきわめている。開高健には珍しいというか、こういう開高健もあるのだと再認識した次第。
⇒中国を旅し、さらにはペン部隊の一員として従軍、漢口に一番乗りを果たしたりもしている。とことん定住の似合わない人なのだ。このアルバムには、彼女の油絵が何点か収録されていて、それらはセザンヌを思わせるタッチである。
⇒時代を鑑みれば、ほんとうに自由な精神がここには横溢するようだ。題材は日常的な生活の中から生まれたものが多いが、中には幻想的な世界を歌ったものもあるし、パリを詠んだ浪漫的な詩も含まれている。「花の命は短くて 苦しいことのみ多かりき」のフレーズばかりが名高いが、詩はむしろそうした現実の苦しさからの解放であったか。
⇒生をすり減らしていくツキヨ。それでも、たまさかの幸福はあった。にも関わらず、彼女は自らそれを放擲する。自分に幸福がそぐわないことをよく知っているからだろう。読んでいる間も、読後感もひたすらに暗い。そして上手い。
皆様のお話を伺っていたら、ついコメントしたくなりました。この単語、なんとも数多くの音楽家がタイトルに使っていますね。わたしの場合はブラジル出身のキーボード奏者でアレンジャーのデオダートの曲ですね。この方はジャズ畑の人で、筒美京平氏などに大きな影響を与えていまして、そのまま日本の歌謡界もまともにその影響を蒙りました。例えば、尾崎紀世彦の代表曲など。この曲ではのちにスパイロ・ジャイラというバンドに移るジョン・トロペイと言うギタリストの演奏がそれはそれは素晴らしくて、、失礼しました。
以前彼のドキュメンタリーを見て衝撃を受けました。「マックイーン:モードの反逆児」もしご覧になって無ければ、ぜひオススメです。 Amazonプライム等でレンタル視聴出来ると思います。
⇒点数を残してくれている。最初に読んだのは高校1年生の時だった。作品はたしか『ながい坂』だったように思う。山本周五郎にはしばらくご無沙汰しているので、また読んでみたくなった。
⇒ミカエラの恋も、やや複雑な様相を示すが、それでもカリーナほどではない。そして、これは徹底して都会の物語。東京とブエノスアイレスである。なお、佐和子の元にしばしば訪れてくる少女が背負っているのは、『禁じられた遊び』の面影であり、すなわち、ポーレットの十字架である。この物語で、彼女が追憶するものは何なのだろうか。なかなかに粋な小説であった。
⇒弓である。そして、それさえもオデュッセウスに奪われようとするが、ネオプトレモスによって、保持が可能となる。かならずしも、ピロクテーテースの意には沿わないが、彼はトロイの闘いにヘラクレスの弓を携えて参加することになる。この劇の最大の特徴は、なんといってもピロクテーテースが毒蛇の毒によって、長らく足萎えの状態に置かれていたことにある。ここでまた、日本演劇に思いを致すなら、想起されるのは説経浄瑠璃集『をぐり』である。彼は、横山一族の陰謀によって、一旦は命を失うのだが、ともかくもこの世に戻って来る。⇒
⇒しかし、その時、彼は意識もなく、足も萎えたまま歩くこともできなかった。人々はをぐりを土車に乗せ、次々と道送りして引いてゆく(もちろん、照手姫もその一人である)。やがて、熊野湯ノ峰で復活を果たすという物語である。をぐりも、もちろん稀代の英雄であった。もちろん、ピロクテーテースとは何の繋がりもないが、不思議な暗合を感じないでもない。
⇒おそらくは復元の技術ではないのだ。かつての栄光を復元しつつ、同時にさらにそこに新たな輝きをさりげなく付加するのである。そして、その美のあり方は実にさりげない。庭に引かれた水路の端に佇むクエリーニ家の獅子像などはまさにその典型だろう。
⇒程は、足を操りながら、主遣いの動きをひたすらに学ぶのである。左手遣いというのも、随分むずかしそうだ。いずれにせよ、こんな風だから、後継者はなかなか得難いものと思われる。さて、このお二人が選んだ文楽ベスト10 だが、意識的にか全く別のものを選んでいる。三大浄瑠璃にしても、勘十郎は『義経千本桜』を、玉女は『仮名手本忠臣蔵』と『菅原伝授手習鑑』を、近松の世話浄瑠璃も勘十郎は『女殺油地獄』と『曾根崎心中』を、玉女は『心中天の網島』と『冥途の飛脚』を選ぶなど。これらは初心者向けの文楽鑑賞の手引きになりそうだ。
⇒だというから、驚きである。彼の演出は歌舞伎の手法を用いたそうだ。倒錯と混淆と絢爛たるバロキズムである。その宝塚からは何人もの真に優れた演劇人たちが巣立っている。まさにそこは夢の舞台だったのだろう。
⇒石の材質といい、建物全体の様式といい、全くゴシックそのものである。それだけに、周囲の建築物とは見事なまでに調和している。風格もあり、格調高い。内部空間は上に大きく広がりを見せ、ゴシック教会の聖堂を思わせる。そして、ここに最大の違いが見られる。天井ヴォールトが鉄なのである。そして、これがまた実に美しい。ここにこそまさしく、新しい建築物としての価値があるのだろう。
⇒重要な対象の1つだが、そこでも撮影対象になっているのは建物であり、その被災した細部である。極めて冷静に対処されているのだが、そこには探究心以外は何もない。まさに非情である。
2011年4月からの参加で、15年目にはいりました。一番よく読んでいるのは日本文学、次いでは翻訳文学です。読むジャンルの幅は広い(半ばは意識的にそうしています)のですが、何でも手当たり次第に読むというわけではありません。特に誇れるものはありませんが、連続読書日数は初日から5263 日(2025年9月2日現在)、冊数は8098冊になりました。胃癌で入院中も、海外旅行中も毎日読んできました。さて、どこまで伸ばせることやら。
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⇒行くだけである。もちろん、それでも大いに楽しめるのであるが。とりわけ、終盤のたたみかけ方は実に堂に入ったもの。しかも、エンディングはなかなかに感動的でもある。さらには、ちゃんと次作への含みも残されている。エンターテイメントとしては、お薦め。