
皆さま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。2025年が実り多き年になりますように。
⇒求めているのである。題名は文末の,いわば本作の結論ともいうべき「すつとの皮に千年の、ぬらりくらりの功を歴て、青大通の殻を脱、浮世くるめて丸飲の、蟒蛇と成り給へと、叢探の穴賢」に由来。
⇒一方、ここには「白バラ」やパルチザンなど、ナチスに抵抗したドイツ人たちの記録もある。もちろん、彼らもまた処刑されていったのだが。そして、身代わりとなって自ら飢餓室に入って亡くなったコルベ神父のコーナーもあり、それはこうした時代にあってのささやかな希望だったと思う。
⇒大蛇への変身は、恋敵の錦の前への嫉妬ゆえの清姫の夢であったということに。しかも、清姫はその後、嫉妬の罪の深さに悲しみ、最後は恋敵の身代わりになって自害してしまう。終盤は意外な展開と結末(この段での)になるのだが、万人周知の伝承そのままでは面白みがないだろうとの作者の凝らした趣向がこれだったのだろう。
⇒ようやく夜が明けて家を出て逃げたが、蛇に追いつかれ、一匹ずつがそれぞれ首にからまって殺されてしまったとうお話。知らない話だったためにプロットの説明ばかりになってしまいました。「蛇」ー49作目。
江口 渙は、これまで全く読んだことがなかった。戦後は中野重治とともに、日本共産党の中央委員を務めるなどしたようだ。「干支本イベント」参加中。「蛇」ー44作目。
⇒ないだろう。歌舞伎はそもそも元禄の昔から熱心な女性の観客たちに支えられてきた。今も歌舞伎座の観客は女性の方がずっと多いだろう。歌舞伎は女性たちがはぐくみ育ててきた芸能なのである。
冒頭の「妹背山女庭訓」をはじめとして、この時期のお芝居がたくさん登場する。この第2弾は先の直木賞作『渦 妹背山女庭訓 魂結び』に優るとも劣らない面白さ。江戸好み、芝居好みにはお薦め!
橋本治の文は本作をわかりやすく紹介しているのだが、歌舞伎らしいメリハリが欲しいところ。流れが良すぎるのである。本来が散文作品ではなく劇なのだから、場面をもう少しドラマティックなものにならないものかと思う。
ヴェネツィアさん&カピバラKSさん、「キー・コード」で了解しました。“・”がポイントだろうと推察したのですが、“小説化”という表現があったので、一応確認のため言及しました。カピバラKSさんの<言い回しの妙も含めて、愉しんでいます>に同意です。
⇒アヤちゃんも、伊勢屋の女主人のセイ子も、彫眉も、登場人物のことごとくが時代がかっているのである。しかも、それでいて彼らは強固なリアリティを放っている。これは実にユニークな小説なのだ。なお、本書は第119回直木賞を受賞している。また、2003年には映画化され、アヤちゃんを演じた寺島しのぶが、各地の映画祭で多数の主演女優賞を得ている。私も見たが、凄まじいばかりの演技であった。
私の高校(某私学の附属男子校)では2外が必修で、私は多数派の独語を選択していました(他は仏・露で、ロシア語は学年で20人前後)。高校3年生の時に副読本がこれの原著でした。演説の録音も授業中に聞きましたが、非常に格調高く、某3代目の世襲政治屋首相とかとはまさに比較にもなりませんでした。
あ、黒がありませんでした。すみません。6色ハット思考法は会議などで使われたりして、こちらの学校では簡単な原理などを教えるところもあるようなのですが、日本では浸透していないのですね。
⇒おぼろげながらもおおよそのところはわかる構成になっている。なお、著者がケンブリッジの言語学者とロシア科学アカデミーの学者なので、日本語についての論及や紹介はない。
⇒それは落魄からは限りなく遠く、むしろ優雅に揺蕩う世界なのであるが。経済的に恵まれて(少々という程度ではない)いることは、かくまでも優雅でいられることを保証するのだろうか。下巻では、そんな彼らの世界が斜陽に向かうのだろうか。今のところ、その行末は全くつかめない。
法的には日本よりは整備されていると思いますが、取り締まるのが大変で…。田舎の大きな農場の一角にあるパピーファームなどは、なかなか当局には把握できないのです…。
⇒内心で快哉をあげていたことだろう)部屋に入ると、思惑通りに「長い接吻」をしたのだが、ベッドの上の毛布をめくると、そこに一匹の青大将が鎌首を持ち上げて…という始末。そればかりか部屋には縞蛇など数匹の蛇がいた。つまり、蛇たちは彼女の用心棒だったというオチがついて幕。いずれも主人公は中年の男。そりゃあ男だって蛇は怖い(不気味だ)。「干支本イベント」参加中。「蛇」ー37作目。
⇒広がる中にある。こちらは屋根の上面が大きく湾曲しているが、正面から見ると直線的な建物に見える。ただ、お庭が大きすぎて邸そのものは小さく見える。しかも、風情は個人住宅というよりは、美術館かアトリエのようだ。
⇒まだ見ぬ東海道の景は、さぞや憧憬を持って眺められたことだろう。と同時に人物像を通して親近感を持って迎えられたことだろうと思う。四季の変化の取り入れ方もまた絶妙である。
生半可な想像力ではとても捉えられそうもありません。おそらく、高度に数学的な想像力が必要なのでしょう。ちなみに私の想像力では、理屈ではわかっているつもりでも、1光年さえ想像の範疇を遥かに超えています。
⇒毒蛇の霊となった女の頼みを入れて、吉備の大臣が金千両で法華八講を奉納することで女は成仏するというお話。こちらは、あまり類話もなく、また後へも拡散していかなかったようだ。道成寺ほどのインパクトがなかったか。安部清明の陰陽師伝承の中に取り込まれてもよかったのだが、そうはならなかった。「干支本イベント」参加中。「蛇」ー33作目。
⇒一方、この今昔版では、より古い伝承を残すと思われる「籠り型」をとっている。「家に返りて寝屋に籠居ぬ。音せずして暫く有て、即ち死ぬ。家の従女等、此れを見て泣き悲しむ程に、五尋許の毒蛇、忽に寝屋より出ぬ」というのがそれであり、変身は「死と再生」の儀式を伴っていたのである。「干支本イベント」参加中。「蛇」ー31作目。
⇒状態にあったのであり、そこに選択の余地はなかったのだ。唯一、彼に選択の余地があったとすれば、それは「書く」ことに他ならなかった。戦争による自身の生も愛も、それしか再生の道はなかったのである。【ガーディアン必読】448/1000。
⇒両親は、娘が蛇に生まれ変わったことは「疎きこと」と嘆き悲しむし、周囲の者たちも「哀れ也」と同情を寄せる。最後も法華経の功徳を説くとはいえ、「哀れに悲しき也」と結ばれる。功徳譚でありつつも、物語の享受者の共感の感情が「哀れ」の語に集約されているだろう。「干支本イベント」参加中。「蛇」-20作目。
※原作は竹田出雲、三好松洛、並木千柳による合作。近松亡きあと、竹本座を率いた出雲だが、自分には近松のような力量のないことはわかっていた。そこで考え出したのが合作という方法。原典の『平家物語』や『源平盛衰記』をはじめ、何でも用いるのだが、その際には史実であるかどうかは重要ではない(本作でも安徳天皇や知盛が壇ノ浦でしんでいない)。それが「面白いか」、「客を呼べるか」こそが至上命題だったのである。当時の歌舞伎は(浄瑠璃も)古典芸能ではなく、まして芸術ではなかった。大衆的な商業演劇に他ならなかったのである。
⇒蛇が怒って燕のしっぽに噛みついたというお話。理屈の上からは蛇は正当な権利を主張しただけなのだが、どうやら蛇は悪者と先験的に決まっていたようなのである。エデンの園がずっと尾を引いているらしい。「干支本イベント」参加中。「蛇」-25作目。
作品集『パルタイ』の中では、巻頭の表題作がひときわ光るが、こうして「蛇」だけを読んでみると、あらためてその面白さに気づかされる。「干支本イベント」参加中。「蛇」-23作目。
ちなみに、浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の初演は寛延元(1748)年。事件の実に47年後であった。47年というところがミソだが、実は事件の直後からいくつものお芝居がこの大事件をあつかっていたが、すべて上演禁止に。近松門左衛門も『碁盤太平記』を竹本座で上演したが、即刻禁止に。『仮名手本忠臣蔵』は、この近松の塩冶判官、高師直、大星由良之助を踏襲。なお、「仮名手本」はいろは歌のこと。いろは四十七文字に掛けている。
沖永良部、3回ほど訪れましたが、全く飽きません。飛行機の乗り継ぎになるので、運賃も時間もかかりますが、見どころ満載ですよ。島の方も笑顔で印象深かったです。けれど、厳しい過去について知らぬまま楽しんでしまい、恥ずかしいですね。
⇒そそのかした蛇を思い出し、最後は自宅の庭にいたヌシと称していた蛇の話でしめくくる。芥川にも「才女」と言わしめたらしい人だし、このエッセイ集も評価されているのだが、私にはどうもそのようには思えない。「干支本イベント」参加中。「蛇」ー19作目。
⇒その後の世界(20世紀にも21世紀にも通底する)を予見するごとくに見通してもいた。「将来の戦争を見こして結んだ平和条約は、平和条約ではない」ー日本もドイツもロシアもみんな相互に平和条約を結んでいたのは誰もが知る通りだ。こんな例には枚挙にいとまがないほどである。
⇒「僕にとって何かの瑞兆であればよい」と締めくくる。この年に限って言えば、あるいはそれは堀にとって瑞兆であったかも知れない。「干支本イベント」参加中。「蛇」-17作目。
⇒「蛇と財宝」、「蛇の変化」などなどどこまでも語り続けて倦むことがないのである。これが「蛇」の項だけの話。この調子で十二支の全てを語って行くのだから、熊楠は実に恐るべき巨人。「干支本イベント」参加中。「蛇」ー16作目。
⇒何も望まない。無私であり、すなわち無垢なのである。トルストイがそこにこそ人間としての理想を見ていることは言うまでもない。悪魔が登場するので、その限りではキリスト教的といえなくもないが、宗教的であるよりもむしろ率直な民衆感情の反映だろう。
⇒も、またジェニに魅入られるクロオドを描くにも、森茉莉は実に上手い。男色を熟知しているのである。おそらくは大半の男たちよりももっと。BL愛好者の方は一読してみられてはいかが?あるいは、お気に召さないかもしれないけれど。なお、タイトルの「金色の蛇」はジェニのメタファーとして機能している。
ちなみに、最後の難題として登場する「命の木になる金のリンゴ」のモチーフも『ニーベルングの指輪』のワルハラ(天上の神々の世界)の金のリンゴ(神々の糧である)に通底しそうだ。「干支本イベント」参加中。「蛇」ー11作目。
⇒ありそうなものだが、こちらは全くそういうことはなく、それどころか若者はその3枚の葉を使って王様の娘を生き返らせる。後半は娘の裏切りと追放、死と、娘の方は自業自得の目にあう。もっとも、これとても蛇には関りがない。つまり、三枚の蛇の葉は、物語の中では不思議な力を持つアイテムといった働きを持つだけだったということになる。「干支本イベント」参加中。「蛇」ー9作目。
Johnnycakeさん、ご紹介いただいたYouTubeを聴いてみました。言葉は現代風な気がしますが、節回しや伴奏音楽は古いスタイルのようで、古雅な響きでした。感謝!
⇒のための窓が大きく取られている。そして、それは自ずと眺望の良さにもつながるのである。内装は石と光沢のある金属をふんだんに用いているのだが、そのために幾分冷たい印象を与えそうである。その代わりではないだろうが、植物が多数繁殖し、室内にまであふれているものもある。私なら、室内にも木目の温もりが欲しいところだ。
今ではもはやできないだろうが、この人は私たち旅に憧れる者がしたくてもできない旅に挑戦し、紀行として提供してくれる数少ない辺境旅のプロフェッショナル。ちょうどいいことに、高野秀行の旅のスタイルとは全く違うスタンスである。しいていえば沢木耕太郎の『深夜特急』の抒情を控え目に、ただしその分無茶ぶりを加えたといった感じか。
⇒シーンがあるが、彼女にとってそれは「待ちに待った、牛とヤギの頭料理」であり、「おしゃべりもそこそこに、必死で食べ続ける」ものなのである。もちろん、頭から直接スプーンを突っ込んで食べるのである。なお、アテネでよく食べたファラフェルがイスラエル料理であることを初めて知った。
⇒抱いていたものと思われる。なお、タイトルの多頭蛇はギリシャ神話のヒュドラ、あるいは日本神話のヤマタノオロチを暗に示すものと思われるが、そこにも得体の知れなさが暗喩されていたのではないだろうか。
⇒している。内部空間は、これもコンクリートが剥き出しであるために、そっけないというか、基地めいた印象を受ける。機能的にはともかく、暖かみには欠ける家である。もっとも、それも日本とは気候風土を大きく異にするためであるのかもしれない。
ヴェネツィアさん おはようございます。 大好きな『ぐりとぐら』シリーズの蔵書の一冊、今年2冊目の共読絵本を嬉しく、レビューを拝読しました!💫 えりこさん&ゆりこさん姉妹は、素晴らしい絵本の数々を遺して下さいましたね!🍀 殊に此の『ぐりとぐら』シリーズは不滅かと思います!💕 今日も穏やかな、良きひと日で在ります様に!✨ 宵待草
⇒語っているかに思えることである。ユクスキュルの思想体系が確固としてそこにあるからだろうか。もちろん、そうだからといってその体系に生物をあてはめようとしているのではない。
⇒妖艶さである。しかも、「待つ」女である宮木に対して、真女子はどこまでも積極的に豊雄に迫ってゆく。本編を豊雄の成長物語とする見方もあるが(それも首肯できなくはないが)私はやはり真女子の物語であると見たい。その一途さは、本質においては「蛇性」ではありつつも「あはれ」である。
2011年4月からの参加で、15年目にはいりました。一番よく読んでいるのは日本文学、次いでは翻訳文学です。読むジャンルの幅は広い(半ばは意識的にそうしています)のですが、何でも手当たり次第に読むというわけではありません。特に誇れるものはありませんが、連続読書日数は初日から5263 日(2025年9月2日現在)、冊数は8098冊になりました。胃癌で入院中も、海外旅行中も毎日読んできました。さて、どこまで伸ばせることやら。
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⇒さんの筆致も、ここに感極まる。それはまさに、近松の言説とされる「虚実皮膜」の境界が消える瞬間である。